山口健さん=北海道千歳市で2025年10月27日、高山純二撮影
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 高校1年の16歳だった時、父が病死し、人生の歯車が思わぬ方向に回り始めた。北海道千歳市内で建設会社を営む山口健(たけし)さん(44)。父の死後、高校を中退し、家も失って家族はバラバラになった。正直に言えば、ぶらぶらと遊んでいた時期もある。しかし、大きく身持ちを崩すことなく、今があるのは父の「ある言葉」を忘れずにいたからだった。

 父・徳久さんも建設業を営んでおり、家族にとって絶対に逆らえない、偉大な存在だった。「怖くて嫌いでもあり、すごく頼れる存在でもあった」。いずれは父の会社に入り、父と一緒に仕事をすると思っていた。しかし、漠然と思い描いていた未来図はもろくも崩れ落ちる。父が膵臓(すいぞう)がんのため亡くなったのだ。まだ35歳の若さだった。「父の死を目の前で見て、これから何をすれば良いのかわからなくなった」

 2年生に進級すると、単位が足りなくなり、留年するか中退するか決断を迫られた。「1年下の後輩と同じクラスになるのは嫌だ」と勢いで中退を選んだものの、将来の展望はなかった。目標はもちろん、特にやりたいこともなく、仲間と遊び歩く日々が始まった。仲間と一緒にいることで、父の死のさみしさを紛らわしていたのかもしれない。バイク事故を起こして、左手首骨折と左人さし指欠損の大けがをしたこともあった。

 無軌道な生活を見かねて、叔父が自身の経営する建設会社で働くよう勧めてくれた。おりしも母の飲食店経営がうまくいかず、自宅を売らざるを得なくなっていた。「もう遊びきった。自分自身で稼いでいかなければいけないと思った」。自宅を失うタイミングだったこともあり、自ら作業員宿舎に入ることを志願し、深川市の現場で社会人生活の一歩を踏み出した。

 「自分は社長気質というより、人を担ぐことのほうが得意だと思っている。叔父を担ぎ、その会社のナンバー2になろうと思った」。真面目に仕事に取り組み、年上の職人にも悪いものは悪いとはっきりと言ってきた。そして、人とのつながりが大切であると考え、訃報や新規開店の話を聞けば、叔父に報告した。供花や開店祝いを贈れば、受け取った人は、悪い気持ちはしない。人間関係がつくれる、重要な情報だと思ったからだった。

 ある日、現場に出ていると、叔父から一本の電話が入る。「お前は会社を出て、独立しろ」。当時23歳。意外な叔父の言葉に驚き、言葉を失った。よくよく聞いてみると、叔父自身が23歳の時、父の会社から独立し、会社を興していた。おいっ子が同じ年齢になり、その仕事ぶりを見て「もう大丈夫だから」と独立を勧めたという。

 「小学生のころから、父には『弱いものいじめはするな』『人から後ろ指を指されるようなことはするな』と口うるさく言われていた。現場でも、弱いものいじめを見ると、相手が年上でも注意した。叔父はそういう姿を見て、独立を勧めてくれたんだと思う」。高校中退後、街や現場でけんかしたこともある。しかし、父の教えに背いたことは、一度たりともなかったつもりだ。【高山純二】

山口健(やまぐち・たけし)さん

 1981年生まれ、千歳市出身。千歳北陽高中退。2004年、建設会社「久健興業」創業し、現在は就労継続支援B型事業所やグループホームも運営。道鳶土木工業連合会理事。

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