29歳で住宅メーカーを退職後、起業を目指したコラムニストのかずこママこと村井和之さん(53)=東京都中央区。持ち前のバイタリティーで人脈を広げてPR会社を起こすと、少しずつ事業を拡大し、国際リゾートホテルチェーンや外資系航空会社の広報も請け負うようになる。
世界を飛び回るせわしない日々を送っていた時、思わぬ形で母との「二人三脚」が始まった。
脱サラした当時、村井さんは栃木県上三川町に建てた家で母智恵子さんと暮らしていた。
田舎町にそうそう起業のきっかけがあるわけではない。つてを頼って、東京の出版社などに出入りし、女性向けフリーペーパーの企画・編集の仕事をつかむと、追い風が吹き始めた。
「常に人と会い、この人とあの人をつないだら企画になると提案した結果、仕事がとれた」
さまざまなメディアに人脈ができ、その人脈を生かしてPR会社を設立。仕事先からは、自然と「かずこ」と呼ばれるようになっていた。
国際リゾートホテルチェーンなどのPRも担い、月の半分が海外出張だったこともある。そんな時、智恵子さんの脳に動脈瘤(りゅう)があることが発覚。除去手術は成功したものの、智恵子さんは術後、精神的に不安定になり、一人きりにすることが心配な状態になってしまった。
やむを得ず東京の職場に智恵子さんを連れて行くことが増えていく。最終的には栃木の家を整理し、東京に移り住むことになった。
東京都内の専門医の診察を受け、智恵子さんの症状は改善した。しかし、再発が不安だった。
実は智恵子さんは元銀座のホステス。「70歳にして銀座に返り咲けば、生きがいを持って元気になるかもしれない。マスコミが飲みに来てくれれば、プレスルームとして各種広報のPRもできて一石二鳥だと考えた」
働くことで元気を取り戻してもらおうと、銀座の雑居ビルの一角に、会員制バー「銀座ルーム」(住所非公表)を開き、智恵子さんにギョーザをつくってもらうことにした。細かな手作業が脳にも良いと考えたのだ。
わずか10席から始まったバーは現在、ギョーザこそ料理人が担当しているが、84歳になった智恵子さんは今もおしぼりをたたむなどして店に貢献。村井さんとの「二人三脚」を続けている。
東京暮らしを続けていると、近所の農家から梅や柿をもらっていた栃木時代が懐かしく思い出された。
「東京は仕事をするには効率が良いけど、暮らしの質としては、決して高くない」。新型コロナウイルス禍で家にいることが多くなると、自然に対する渇望が日増しに強くなっていく。
銀座と自然の2拠点生活をすることを思い立ち、候補地選びが始まった。「東京から飛行機で1時間ちょっと。空港の周辺は大平原が広がっている。空港周辺の自治体にメールで移住について問い合わせすると、熱心な返信をくれたのが千歳市だった」
店を構えれば、もう後には引けないと、千歳市の商店街の一角に2023年、5~10月の週末だけオープンする料理屋「ちとせ曹司」を開店した。
市内に家も建て、2拠点生活を始めると、千歳は空港をハブに世界の英知を集約できる大きな可能性を秘めた街であると実感する一方、市民や行政がその可能性を生かし切れていないと、もどかしく思うこともあった。
「北海道開拓は官主導で行われ、今も北海道には『お上任せ』の空気が残っている。街は本来、自分たちでつくるもの。人を育て、街づくりへの思いが湧き上がるようにしないと、真の街づくりはできないと思う」
国内外の一流の人材を招き、未来の街づくりを担う子供たちに接してもらおうと、今夏には元イトーヨーカ堂社長の亀井淳さんを理事長に迎え、NPO法人「ちとせ&BEYOND(びよんど)」を設立。自身も理事に就いた。
「空港を活用して世界を広げることで、子供たちに大きなビジョンを持ってもらいたい。そして、街の可能性をもっともっと高めて具現化し、千歳にご恩返ししたい」。単なる2拠点生活にとどまらず、千歳の街に新たな種をまこうとしている。【高山純二】
村井和之(むらい・かずゆき)さん
1972年生まれ、宇都宮市出身。宇都宮東高、秋田大医療技術短期大学部(現医学部保健学科)卒。自治医科大付属病院、住宅メーカーを経て、PR会社、富裕層向け旅行会社を経営。2012年に会員制バー「銀座ルーム」、23年に料理屋「ちとせ曹司」をオープン。著書に「東京銀座六丁目 僕と母さんの餃子狂詩曲(ラプソディ)」(集英社)。
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