日本高野連の元事務局長が語る「高校野球半世記」

 2007年に発覚した特待生問題は、日本学生野球憲章を見直すきっかけになりました。

 同年5月、自民党は「高校野球特待制度問題小委員会」を設置しました。毎週木曜日に計4回、私は東京で朝9時からの小委員会に参加しました。なぜ問題が起きたのか、どういう背景があったのか。国会議員たちに、厳しく追求されたことを思い出します。

 当時、ほかの競技では認められているスポーツ特待生が、野球では憲章により禁止されていました。小委員会の提言には「野球だけが日本学生野球憲章の下に、顕著な成績を収めた生徒や優れた能力を有する生徒に対して特待生を認めないとすることは、国民の理解を得にくい」とありました。

 7月には日本高校野球連盟で有識者会議を設置しました。委員は法曹界や私学関係者、スポーツ関係者ら15人。中学校関係者や少年野球の監督らから聞き取りをするなど、会議はメディアにも公開し、実態の把握に努めました。「歯止めをかけるべきだ」「ルールで制限すると子どもの夢を奪う」など意見は様々でした。

 10月には「特待生制度の基準を募集要項などで一般に公開し、各学年5人以下が望ましい」など、条件付きで特待生制度を認める答申が出されました。3年間を試行期間とし、実態把握をしたうえで最終案をまとめることになったのです。

 この答申に沿って、日本高野連は11月、入学金や授業料の免除とするが遠征費や寮費などは対象としないこと、各学年5人以下を目安にすることなどの特待生のガイドラインを提示しました。4月に特待生問題が発覚してから約7カ月後のことでした。

 戦前、学生野球が商業利用された反省から日本学生野球憲章は制定されました。1950年の制定後、日本高野連はひたすら憲章を守ることに徹しました。

 一方、憲章を意識しすぎたことによる歪みも生まれていたと思います。特に、特待生の禁止に関しては私学の実態を見過ごしていました。

 2010年2月、憲章は全面的に改定されました。学生野球が教育の一環であることを改めて明確に打ち出したものでした。けが予防などの観点から週1日の休養日を設けることを条文化しました。原則禁止だったプロ野球との交流についても一定の要件のもと「交流できる」と緩和されました。

 そして11年、野球特待生は第三者の介入を許さないよう中学校長の推薦を必須とし、1学年5人以内とするなどの条件のもと、野球特待生制度が正式に決まりました。高校野球で特待生が初めて認められたのです。憲章が制定されてから半世紀以上。大きな転換期となりました。

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 日本高校野球連盟の事務局長や理事などとして半世紀にわたり、運営に携わってきた田名部和裕さん(79)が、高校野球の歴史を振り返ります。

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