日本のプロ野球の礎を築きながら、その名は広く知られていません。100年以上も前に日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」を創設した、河野安通志(こうの あつし)。彼は、現在の石川県加賀市大聖寺の出身です 。

プロ野球100年を迎えた2020年、その故郷で彼の功績を再評価し、後世に伝えようという動きがありました。有志の手で建てられた顕彰碑、そして大正ロマンを代表する画家・竹久夢二が憧れた河野安通志とは一体どんな人物だったのでしょうか。その足跡と顕彰に携わった人を取材しました。

ハイカラな文化の象徴・プロ野球の創設
河野安通志は1884年(明治17年)生まれ。早稲田大学野球部でエースとして活躍しました。アメリカ遠征で本場のプロフェッショナルなベースボールに触れた経験は、彼の運命を決定づけます。「日本にも職業としての野球チームが必要」の信念で、1920年(大正9年)、日本で初めてのプロ野球チーム「日本運動協会(通称:芝浦協会)」を設立しました。

これは、現在の日本野球機構(NPB)の直接的なルーツではありませんが、選手が報酬を得てプレーする職業野球チームとしては、日本で最初のものです。

彼は選手としてだけでなく、監督、そして経営者としてチームを牽引し、野球の技術や戦術の発展に大きく貢献しました。この功績が認められ、特別表彰で野球殿堂入りを果たしています。

これほどの輝かしい功績を持つにもかかわらず、河野安通志の名は全国的に、そして地元でさえ、時の流れとともに忘れ去られようとしていました。その状況に一石を投じたのが、地元の歴史や文化を愛する有志たちです。

「知られていない郷土の偉人」住民たちで顕彰を

河野の顕彰活動に携わった一人、大聖寺文化協会会長の伊林永幸さん。伊林さんは、活動の始まりをこう振り返ります。

大聖寺文化協会 伊林永幸会長「日本初のプロ野球チームの創設者なのにあまり知られていない、ということで、石碑を作れば関心を持ってくれるんじゃないか、という話になったのが始まりです。」

河野安通志の顕彰碑とモニュメント(石川県加賀市)

顕彰碑ができたことで、「プロ野球の創設者は大聖寺の出身なんだという認識が非常に広まったと思います」と伊林さんはその手応えを語ります 。

河野が招いたプロ野球の外国人助っ人選手第1号はささやき戦術の元祖?

河野が作った日本運動協会は、1923年(大正12年)の関東大震災などの影響で解散を余儀なくされます。

1936年(昭和11年)、プロ野球リーグが創設され、日本のプロ野球に初めて外国人選手が登場します。投手のバスター・ノース、捕手の「バッキー・ハリス」です。

来日したハリスは名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)に入団、河野は総監督でした。

ハリスには強肩強打のほか、ユニークなエピソードが残ります。

打席に入る選手に後ろから
①「オクサン オゲンキデスカ?」と日本語でささやく。
②童謡「桃太郎」をうたう。
選手はわけがわからず、打撃に集中できなかったという逸話が残っています。

“ささやき戦術”といえば、現代では野村克也氏、達川光男氏が有名ですが、プロ野球草創期にすでに使われていた戦術だったのです。

1937年(昭和12年)河野は名古屋軍を離れ、新たに球団・イーグルスを創設します。河野を慕うハリスは名古屋軍から離れるため、アメリカに帰国したあと、再度日本へ来てイーグルスに入団するという荒業をやってのけます。契約が優先する現代では到底考えられないことです。

ハリスは3年間と活動期間は短いものの、1937年にMVP、1938年にはシーズンのラスト2試合で、4本のホームランを打ち、本塁打王を獲得。

プロ野球草創期に人気・実力を兼ね備えた名選手でした。

先見の明と不遇の晩年~歴史のifを想う「幻のチーム・東京カッブス」

1941年に太平洋戦争が始まり、イーグルスは、黒鷲軍、大和軍と名を変えて存続していましたが、戦局が不利になる中、河野は1943年に球団を解散しました。

戦後まもなく、河野は私財を投げ打ってプロ野球の再建を目指していました 。チーム名は、東京カッブス。1945年(昭和20年)、日本野球連盟に加盟を申請しましたが認められることはありませんでした。

日本野球連盟の会長で、のちにセ・リーグ会長を務めた鈴木龍二氏の回顧録では、河野のチームの加盟について「ぼくは河野さんのチームは認めてあげたかった。しかし同じ早大の出身であっても、理想家肌の河野さんとは仲が悪かった巨人の市岡さんの反対もあってとうとう認められなかった」とし、「いまでも気の毒だったと思う」と記しています。

加盟申請が正式に退けられる10日前の1946年(昭和21年)1月12日、河野は61歳で急逝してしまいます 。伊林さんは、その早すぎる死を心から惜しみます。

大聖寺文化協会・伊林永幸会長
「もし彼がもっと長生きしていればね、後楽園をベースにした球団ができたかもしれない。彼が戦後に作った球団がそのまま伸びて、日本の中心的なプロ野球球団になっていたと思いますけどね。」

歴史に「もし」はありませんが、彼の存在がその後の日本プロ野球史を大きく変えていたかもしれないと想像させるに十分な大きな喪失でした。

河野が特別表彰で野球殿堂入りしたのは、世を去って14年後の1960年のことでした。

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