つねに複数種目に挑戦し、21年東京五輪では1500m8位、23年のブダペスト世界陸上では5000m8位と、入賞も果たしてきた田中希実(26、New Balance)が、東京2025世界陸上でも1500mと5000mの2種目に出場する。

今季は例年参戦しているダイヤモンドリーグ(以下DL)だけでなく、新設のグランドスラムトラック(3000mと5000mの2レースを中1日で走り、ペースメーカーが付かない勝負優先の大会。現在は中断されている)にも出場してきた。

世界トップ選手たちの圧倒的な力に跳ね返され続けて来たことで、田中は自身の置かれている状況を見つめ直してきた。その結果、練習は進化し始めているというが、レース結果にそれが現れていない。田中は何を考えて東京世界陸上に挑もうとしているのだろうか。

具体的な目標を持たずに出場する経緯は?

――1500mと5000mの2種目に出場します。どんな目標で臨みますか。

田中:春からの目標で言えば、2種目とも決勝に残りたいと考えていましたが、今の心境で言えばどちらの種目でも、不完全燃焼でなければいいと思っています。今の力を出し切れたと、思える結果を出したい。具体的にこれという目標は持っていません。22年のオレゴン世界陸上や23年ブダペスト世界陸上は出場した種目で、決勝に残ることや入賞以上の成績を目標に立てていましたが。

――パリ五輪から力を出し切ることに、目標設定の仕方が変わったということですか。

田中:その逆でパリ五輪では結果を求めていました。そこで悔しい思いをして、目標を一気に“世界のトップオブトップの仲間入り”としました。今シーズンは本当に1番だけを見据えてやって来たんです。今は一周回って良い意味で、考え方を全部変えてみたい。地力自体は練習でもレースでも、確認できる場面が増えています。あとは落ち着いて待ちさえすれば、いつか必ず結果は出る確信がありますが、地力をレースでどう出せるかわからなくて、焦ってしまうことが多いんです。1番を狙って最下位になってしまったり。ちゃんと結果を出してこそのトップ選手ですが、狙い定めて結果を出す域にはまったく達していません。世界陸上で地力を出すぞ、と定めてしまったらまた大きく外す、自分を見失ってしまう可能性が大きいので、待つスタンスで臨みたいと思います。地力が出るタイミングが世界陸上で来るかもしれませんし、来季以降になるかもしれません。

――イタリアのクラブチームで練習をする機会などで、地力の向上が確認できたのですか。

田中:日本選手権前に少しだけイタリアのチームと練習させてもらう機会があったのですが、2回ぐらいだけで、イタリア選手が普段どんな練習をしているか、見学を兼ねて少し参加させてもらう感じでした。地力確認のトレーニングにはなりませんでしたが、1人の練習の中ではイタリアで走った時の感覚を信じて、ペース設定をする感覚が鋭くなったと思ってます。今まではペースを気にしてタイムと競争する感じがあったのですが、今は自分の感覚に耳を傾けて走った結果、いつもより練習中のタイムが速くなっているんです。理屈にとらわれない地力というところが少し強化できたと感じています。レースでタイムを狙いすぎたり、勝負(順位)に縛られたりした結果、練習でつかみかけていたものを見失うことが多かったと思っています。

9月に好記録が多い理由は?

――今年のレースで地力を確認できた大会は?

田中:1つ挙げるとするとDLロンドン大会(7月19日)の5000mです(14分34秒10で7位)。そのときも狙うことをやめて地力確認の気持ちで出たら、レースがたまたま落ち着いた流れになって、自分の得意な展開になってくれました。ラストスパートをしようと思うほど硬くなるレースが日本選手権(7月4日5000m14分59秒02、6日1500m4分04秒16)、MDC(12日1500m4分05秒95)と続いていたので、ラストスパート自体をやめようと思って走っていました(実際は4600mからの200mを30秒8にペースを上げたが、最後の200mは32秒1にペースダウンした)。その時もゴール間際では脚が止まりかけて数人に抜かれましたが、スパートしようとしていたら、もっと止まって8位にも入れなかったのでは、という感覚でした。その時点の力をちょうどよく出し切ったことで、今までで一番早い時期に14分30秒台を出すことができました。

――日本記録の14分29秒18が23年9月、セカンド記録の14分31秒88も24年9月。どちらもDLブリュッセル大会ですが、場所との相性ではなくて時期的な理由ですか。

田中:そうですね。良くも悪くも開き直るタイミングが9月だったからなのだと思います。私は(そのシーズンの走りを)完成形に持っていくのに時間がかかりますし、例年世界陸上や五輪が行われる8月に完成形を出したいと頑張ってきましたが、そこで狙いすぎてしまって。(無欲に近い気持ちで臨んだ)東京五輪のようにハマるときはちゃんとハマるのですが、パリ五輪やブダペストの序盤の1500mのように気持ちが入り過ぎたり、考えすぎたり、緊張をゾーンに持って行けなかったりすると外してしまいます。それに対して9月はシーズンが半ば終わったようなイメージで、あまり記録を狙わずに走るので、逆に自然体に近い感じで動くのかもしれません。

東京五輪やブダペスト世界陸上入賞の背景は?

――東京五輪1500mや前回の世界陸上ブダペスト5000mは、東京の準決勝とブダペストの予選で日本新も出し、決勝では2大会とも8位に入賞しました。大きな大会で殻を破れる理由は何だとご自身では分析しますか。

田中:良くも悪くも、陸上競技を始めた頃から何も狙わずに走り続けてきた部分もあるんです。以前は日本代表になりたいとか、実業団に入ってこうしたい、とも考えていませんでした。それでも不思議と走りたい気持ちがありました。だからこそ、自分の限界を決めない、このくらいの成績だろうと決めないで走ることができて、そういった結果も出せたのだと思います。

――世界大会に行ったら自分はこのくらいだろう、という考え自体を持たない?

田中:そうですね。世界陸上に出ることが目標というわけではありませんし、目標にしていたら出ただけで満足してしまうかもしれません。世界陸上の目標を立てたこともありますが、そこだけを考えて日々の取り組みをしているわけでもありません。それでも練習を頑張ることができました。目の前の練習を1回1回こなすこと自体が目標で、それを積み上げた結果がレースなので。どういうものになるかはわからないけど表現したいし、それがどういうものになるか、自分も見てみたい。そういうスタンスが東京五輪や、ブダペストの結果につながったのかもしれません。

父・田中健智コーチ「東京五輪と同じ状況になっている」

【田中健智コーチコメント】

「今季は世界陸上が行われる9月に状態が整えば、と考えていましたが、新設されたグランドスラムトラック大会を、3大会5レース走ったことがイレギュラーでした。そこで最下位になるなどシーズン前半は、順位や記録にこだわりすぎて空回りしていました。しかし予定外のことに取り組むことで、弱点を洗い出すこともできました。それがなければ、“なんとなく大丈夫かもしれない”という思いでDLから世界陸上に向かっていたかもしれません。本人が話したように8月中旬には試合でも表現できる練習の手応えがあったのですが、8月のDLシレジア大会(3000m8分45秒80)とブリュッセル大会(5000m14分37秒19)とも失敗しました。ブリュッセル大会は14分30秒台ですが、最後がロンドン大会よりも4秒以上遅かったんです。しかしその後の練習に深みが出てきましたね。本人が昨年“トップオブトップ”になりたいと口にして、その言葉に束縛されてしまっていたのですが、ようやくそこを超える境地になったのだと思います。本当は順位も記録も残したいのですが、そういうものを超える何かを残したい。行く行くは結果を出せると思いますし、それが今度の世界陸上になれば、半年間の苦しみを結果で出せたら一番良いのですが…。今年は14分30秒前後の選手が増えて、アフリカ勢だけでなく欧米や豪州の選手も出して、田中は(残り1周まで4番手くらいにいてもラストで抜かれることが多く)その他大勢になってしまっています。その状況は東京五輪の頃と同じと言えるでしょう。東京五輪は記録よりもまず、予選を突破しよう、それができたら次は準決勝を突破しよう、と単純にトライすることができました。東京世界陸上も1500mが先に行われます。予選を突破すれば何かが見えてくるのではないでしょうか」

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)

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