米政府がメッセンジャー(m)RNAワクチン研究への支援をやめ、世界に波紋が広がっている。
主導したのは反ワクチン活動で知られるケネディ厚生長官で、本音をむき出しにした形。コロナ禍で実用化されたmRNAワクチンは応用研究も進むが、リーダー格の米国が事実上撤退を表明したことで、米国からの人材流出が加速しそうだ。トランプ政権の「科学軽視」が他国を利する皮肉な構図となっている。
ケネディ氏は、8月に出した厚生省の声明で「これらのワクチンは新型コロナウイルスやインフルエンザなどの上気道感染症を効果的に防げない」と主張。同省傘下の米生物医学先端研究開発局(BARDA)による総額約5億ドル(約740億円)、計22件のプロジェクトに対する連邦政府の資金提供を打ち切り、新たなプロジェクトへの支援も行わないと表明した。
「これは致命的な決断と言えるだろう」。ベルギーにある欧州最大の臨床試験(治験)施設「ワクチノポリス」のピエール・ファンダム所長は毎日新聞の取材に、こう警鐘を鳴らす。
がん治療への応用も
mRNAは、DNAの遺伝子情報を、たんぱく質が合成される場所(リボソーム)に伝達する「設計図」の役割を担う分子だ。これを利用したmRNAワクチンは、ウイルスの一部を作るたんぱく質の設計図となるmRNAを人工的に合成。それを体内に注入することで、免疫を誘導する。
mRNA医薬の研究開発がスタートしたのは1990年ごろ。その技術を活用したワクチンは2020年代に入り、新型コロナウイルス感染症で初めて実用化された。現在は感染症予防にとどまらず、がんへの応用研究も進められている。
従来の感染症予防には、毒性をなくしたウイルス・細菌などの病原体を材料とした「不活化ワクチン」や、毒性を弱めた病原体を材料とした「生ワクチン」などが使われてきた。
mRNAワクチンはこれらと異なり、病原体の増殖や培養が不要で、そのぶん短期間で製造できる。変異株に適応しやすいのも特徴だとされる。
ファンダム氏が拠点とするベルギーは世界有数のバイオ医薬品輸出国だ。これまでに新型コロナワクチン45億本以上を製造し、170カ国以上に出荷した。
「パンデミック(世界的大流行)に最もすばやく対応できる。コロナ禍で迅速に大量のワクチンを製造できたのも、mRNAの技術があったからだ」とファンダム氏は強調する。
そのmRNAの研究で世界をリードしてきたのが、ほかならぬ米国だ。
日本ではファイザー社とモデルナ社の新型コロナワクチンが広く接種されたが、いずれも米国に本社を構える(ファイザーの新型コロナワクチンは独ビオンテック社と共同開発)。
mRNAワクチンの開発を可能にする基礎技術を発見した功績により、米ペンシルベニア大のカタリン・カリコ氏とドリュー・ワイスマン氏が23年にノーベル生理学・医学賞を受賞したことも記憶に新しい。
米国抜きで競争へ
一方、ケネディ氏はワクチンの安全性や有効性について、コロナ禍前から懐疑的な発言を繰り返してきた。根拠となるデータに乏しい発信も多く、かねて米国の医学・医療界では、科学に基づく政策を軽視する姿勢に懸念が強まっていた。
実際、ケネディ氏は厚生長官就任から間もない3月、改革の一環として、厚生省の管轄する疾病対策センター(CDC)、食品医薬品局(FDA)、国立衛生研究所(NIH)などのフルタイム職員を、自主退職者1万人を含めて計2万人削減し、地域事務所の半分を閉鎖すると発表した。
6月には「利益相反」を理由に、政府のワクチン政策に助言する予防接種諮問委員会(ACIP)の委員17人全員を解任。ワクチンに批判的な学者や医師らを新たな委員に指名した。
さらに8月、CDCのスーザン・モナレズ前所長を就任1カ月足らずで解任すると、これに抗議してCDCの上級幹部職員が辞任するなど事態は混迷を極めている。
モナレズ氏は9月の議会で「(ケネディ氏は)科学的根拠を検討することなく、ACIPによる今後のすべての勧告を事前に承認するよう要求した」と証言し、「これらの要求に応じなかったことが解任の真の理由だ」と断じた。
ファンダム氏は、米政府がmRNAの研究開発支援を打ち切ったことで、新たな感染症への対応速度が落ちることを懸念し、「残念」と憂えた。そのうえで「十分な知識が他の国や地域にも蓄積されている」とも述べ、世界の創薬市場では今後、米国抜きで競争が活発化していくとの見方を示した。【西田佐保子】
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