甘めのタレと、お店を切り回す「おかみさん」の気さくな人柄。東京の下町で地域住民に愛された焼き鳥店が、店をたたもうとしていた。「この味を消してしまうのはもったいない」と一念発起し、店を継いだのは畑違いの薬剤師だった。
「タレの甘さとしょっぱさがちょうど良く、晩酌にもぴったり。仕事帰りに買って帰るのが楽しみでした。この味を消してしまうのはもったいないと思ったんです」
そう振り返るのは、薬剤師の蛯原崇晶(たかあき)さん(36)だ。もちろん、飲食業の経験はなかった。
焼き鳥店「徳光」は1982年にオープン。味わいと、店に立つ徳田千恵子さん(86)の気さくな人柄で地元客に愛されてきた。
しかし、2019年に夫正雄さんが84歳で死去。千恵子さんも年齢を考え、店をたたむことにした。
来月、徳光は閉店する――。そんな知らせが街を駆け巡った時、蛯原さんは「それなら僕に後を継がせてほしい」と申し出たのだ。
蛯原さんはフリーの薬剤師。徳光と同じビルに入居する「お隣さん」の薬局など、複数の薬局で働いている。そのかたわら、人手不足の薬局にスポット勤務ができる薬剤師を派遣する会社も運営している。働き方の多様化には少し関心があった。
蛯原さんは徳光の常連客でもあった。「隣の薬局で働いていると、昼過ぎにはいい匂いがして、買わずにはいられなかったんですよ」。しかし、千恵子さんは首をかしげた。
「焼き鳥とお薬じゃ、扱うものが全然違う仕事じゃないですか。煙で服や髪も汚れます。まさか、と思いましたよ」
それでも、徳光の味を愛した常連客の申し出がうれしく、その言葉に甘えることにした。マンツーマンの修業の日々が始まった。
新規開店までの準備期間は約1カ月と決めた。肉のカット、串打ち、焼き、味付け、接客――。伝えることはたくさんあり、蛯原さんの仕事が終わった夜に、連日のように特訓を繰り返した。千恵子さんは「のみ込みがよく、ぐんぐんと上達しました」、蛯原さんは「薬剤師と違って、マニュアルがない仕事。焼き加減や塩加減、接客の仕方も、千恵子さんが肌感覚で身につけたものを伝えてもらうことが多く、新しい学びの日々でした」と振り返る。
徳光は持ち帰り専門の「やきとり日和」に衣替えし、24年12月にオープン。だが、再スタートは、チャレンジに次ぐチャレンジだったという。
真夏は街を歩く人もおらず、売り上げが低迷して途方に暮れる日もあった。一方で、クリスマスには200本以上のクリスマスチキンが飛ぶように売れ、「こんなに売れるんだ」と驚嘆した。
新商品開発にも挑戦し、それまでなかった「ぼんじり」や「せせり」などを取り入れている。蛯原さんは「会社員ではないので守ってくれる上司もいません。ですが、千恵子さんが毎週2日、手伝ってくれることもあり、支えてもらい、成長させてもらいました」と胸の内を明かす。
千恵子さんは「店主が若返ったおかげで、メニューも刷新され、若いお客さんが来るようになりました。やっぱり代替わりっていいわねえ」と顔をほころばせる。
蛯原さんの名刺にある肩書は「やきとり日和」の「店長」と、「薬剤師」が併記してある。当面は「二足のわらじ」をはき続けるつもりだ。
キャラクターのニワトリが着るTシャツの背中には「徳」の字が書かれている。「お客さんにかける言葉として『お大事に』と『ありがとうございました』の二つを言えるのがうれしい。こんな働き方があるということを、この店を通して広く知ってもらいたい」と蛯原さんは言う。
店の名前が新しくなって1年あまり。畑違いの新店主の挑戦に応えるように、客層に広がりが生まれてきた。店舗や企業の事業承継の難しさが社会問題化している現代だが、途切れぬ人気の背後には、新旧店主による丁寧な技術の承継があった。【山崎明子】
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「やきとり日和」は東京都江東区大島5の5の8、電話070・9047・1891。営業時間は午後2~7時、定休日は水曜、日祝日。
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