
豊臣秀吉の弟で大和国(奈良県)を治めていた秀長が、春日大社の例祭「春日若宮おん祭」の主催を興福寺から自身に移した経緯の一端を示す書状が見つかった。古文書を調査していた天理大学が16日に発表した。寺社勢力を使って大和国を支配していったことが分かる貴重な史料という。
春日大社の例祭を主催
秀長は、数々の戦に参加して秀吉の天下統一を支えた。1585(天正13)年に大和国を拝領し、郡山城(大和郡山市)に居を構えた。
天理大の幡鎌一弘教授(日本近世近代史・日本宗教史)や天野忠幸教授(日本中世史)らの説明などによると、春日若宮おん祭は当時、興福寺が主導して行っていたが、多大な費用が必要なこともあり、実施が難しい年もあったという。
大和国を拝領した秀長は、おん祭の実行を命じたが、興福寺は拒否。そのため、秀長がかわりに主催したことが、興福寺の僧が記した「多聞院日記」から分かっていた。ただ、具体的に誰がどのように指示したのかは分かっていなかった。
菊岡家に伝わる文書2000点
今回見つかった書状は、秀長の家臣・横浜良慶が、興福寺の衆徒(しゅと)(僧侶で、おん祭を仕切る役)に、1585年に出したもの。おん祭を滞りなく行うことを命じ、反した場合は、今後願いを聞き入れないと威圧する内容が記されている。

書状は、中世から続く菊岡家に残っていた古文書の中から見つかった。天理大が2025年から2千点ほどある文書の整理作業を進めており、戦国時代以降の文書が多数含まれているという。
秀長が衆徒を束ねる「棟梁(とうりょう)」として認められたことを示唆する書状や、筒井順慶が衆徒に出した書状なども、今回の整理で見つかった。
幡鎌教授は「秀長が、興福寺や春日大社の伝統を巧みに継承、活用したことが分かる史料。おん祭を主催することで、大和国の支配者であることを示した。武力のみに頼らず、既存の秩序を生かしながら地位を確立していったのだろう」と話している。
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