17歳の久保凛(東大阪大敬愛高3年)が東京2025世界陸上女子800mに出場する。久保は昨年1分59秒93と日本人初の1分台をマークすると、今季は日本選手権2連勝時に1分59秒52まで日本記録を縮めた。高校生でそのシーズンの日本トップレベルで走った選手は過去にもいたが、久保はそのレベルから抜け出し、世界への挑戦権を手にするに至った。高校生の久保が、それを可能にした理由は何だったのか。そして初のシニア世界大会で、どんな戦いをしようとしているのだろうか。

強豪外国人選手をペースメーカーに見立てる

長野県菅平で合宿中の8月末に、久保は公開練習と取材対応を行った。約3週間後に迫った世界陸上に対して「順位はわかりませんが、タイムは絶対に自己新を出して終わりたい」と意気込みを話していた。

23年ブダペスト世界陸上は各組3位以内、着順通過の最低記録が2分00秒92、4着以下の選手たちの中からタイム上位のプラス通過の最低記録が2分00秒36だった。22年オレゴン世界陸上では2分01秒72と2分01秒63だった。中・長距離種目は自己記録イコール、世界大会のラウンドを勝ち抜く力ではない。だが、久保が予選通過の戦いに加わる力があるのは、自己記録が過去2大会の通過記録を上回っていることから間違いない。過去3人の日本選手が世界陸上に出場してきたが、予選を通過すれば初めての快挙となる。

「何度か外国人選手と走った経験から、なかなか自分のレースをさせてもらえないと感じています。東京世界陸上では自分のリズム、走りを貫いてラウンドを勝ち進みたいです。ハイペースでもスローペースでも対応して、最後はラストスパートをかけて、1本1本、自分らしい走りをしていきたい」

男子800mで久保と同様、昨年高校生で日本新を出した落合晃(19、駒澤大1年)も今大会に出場。パリ五輪金メダリストのE.ワンニョイ(21、ケニア)と同組で勝負を挑んで話題になった。久保は同じ組にはならなかったが、やはりパリ五輪金メダリストのK.ホジキンソン(23、英国)と走ることを希望していた。「一緒に走れたなら食らいついていきたい」

久保は内容の違う走りを両立させるつもりでいるようだ。気持ちとしては、どんなペースアップにも付いて行く。だが自分のリズムは崩さない。野口雅嗣監督は「最後までペースメーカーがいると考えれば、難しい展開になると思わない」と話している。つまり大きな揺さぶりのときは即座には対応しないで、徐々に追い上げる走りをすることで、世界の強豪選手をペースメーカーに見立てようとしているのではないか。

世界陸上でも自己新にこだわる理由は?

世界陸上の予選が実際、どのくらいのペースになるか決まっているわけではない。22年オレゴン世界陸上は、6組中5組が2分00~01秒台でフィニッシュした。自己記録を出せる確率は半々だろう。

それでも久保が自己新にこだわるのは、東大阪大敬愛高での3年間を、常に自己記録更新を目標としてきたからだ。野口監督が以前の取材で次のように話したことがあった。

「タイムが遅い選手でも自己新を目指していますし、自己新はその選手にとってまだ見ぬ景色を見ることになる。そこに向かって努力をすることは、どんなレベルの選手でも変わりません。久保に対しても2分を切ろう、標準記録を切ろうと言ったことはなく、自己記録を出そうと3年間言い続けて、今の記録になっています」

久保が「絶対に自己新」と話すのは、そのスタンスを3年間貫いてきたからで、それが平常心で戦う方法にもなる。世界陸上を戦うのはチームで自分1人でも、自己新を目指すことで、チームメイトと一緒に戦っている気持ちになれる。

もう1つは「ブブカ、デュプランティスの世界新記録と同じです」と、野口監督が話したことにヒントがある。今年の日本記録が昨年から0.41秒の更新で、世界陸上参加標準記録の1分59秒00にあと少しで届かなかった。“もう少し頑張っていれば”という声も耳に入っていたはずだ。

そのときに野口監督が引き合いに出したのが、棒高跳のレジェンド2人である。1980~90年台に世界記録を17回更新したS.ブブカ(ソ連→ウクライナ)と、今大会で14回目の世界記録更新をしたA.デュプランティス(26、スウェーデン)。2人とも1cm刻みで世界記録を更新してきた。

「800mは0.4秒でも距離にすると3mくらい違うので、それ以上の記録更新となると厳しいものがあります。0.1秒でも0.2秒でも、少しずつ縮め続けてていく方がいい。次の目標を高く設定しても、モチベーションが持たなかったら逆効果ですし、近い目標ならリラックスして臨めます。練習も無理せずに継続できる」

実は久保のポイント練習の設定タイムは、野口監督が決めているわけではない。久保は「ペースは何も考えずに走っています」と言う。つまりその日の状態に合わせ、目指す試合もイメージしながら自身で強弱をつける。「その日限定の走り」だという

それでも久保の練習のタイムは年々上がっている。ポイント練習だけでなく、他の選手のポイント練習なみ、と評判のウォーミングアップも、ポイント練習後に行う短い距離のフリーの走りも、タイムはすべて上がっていると野口監督は明かしている。

日頃の練習のレベルが高いから、世界陸上だからといって特別なことは行わない。それが久保の世界陸上に臨むスタンスだ。

「世界陸上に出場できること自体楽しい」(久保)

練習のタイム設定を自分の感覚で行っているが、久保の設定が甘くなることはない。

「久保は身体面の能力が優れているだけでなく、心の面で自分に絶対負けません。どんなメニューを提案しても、嫌な顔一つしませんし、設定したタイムを切れなくても、次の練習で必ずクリアするんだ、という思いが非常に強い。アスリートとして一番大切な、人間力が高いのです」

野口監督の指摘した人間力は、普段の練習や日常生活の過ごし方で重要になる。それに加えて久保自身が今季、試合に臨むメンタル面の重要性に気がついた。そこで久保が意識しているのが“楽しむ”こと。「シニアでは初めて、日の丸を付けて世界で走ることができます。出場できること自体楽しいですし、全力で楽しみたいと思っています」。

この考え方に至ったのは、世界陸上を目指す今季のプロセスで失敗と成功を経験したからだ。5月3日の静岡国際は2分00秒28で優勝し、次戦の木南記念(5月11日)は地元大阪の大会ということもあり、日本新記録を狙っていた。だが2分02秒29かかり、ゴール前では豪州選手にも抜かれて2位に。そこから立て直して5月31日のアジア選手権は、23年アジア室内選手権優勝の中国人選手には敗れたが、2分00秒42で2位と合格点の走りだった。

「静岡で良い走りができて、地元の木南記念で絶対に記録を出さないといけない、という気持ちが強すぎて上手くいきませんでした。自分でプレッシャーを感じたり、絶対に勝たないといけないと思い詰めたりすると、力んでしまいます。アジア選手権は初のシニア日本代表なので、そこからはどんどん楽しんで走ろうと思えてきました。今回は初めての世界への挑戦ですし、ベストを出すだけと考えれば楽しむことができます」

自己新を出す。自分のリズムで走る。大きな大会を楽しむ――すべて久保が、ずっと行ってきたことである。いつもの高校生らしい走りを世界陸上でもできれば、予選通過の可能性が高まるはずだ。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)

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