カープの今季最終戦が行われた10月4日(土)
午前10時45分、マツダスタジアムの屋内練習場に松山の姿がありました。
今季初めて、1軍の試合に臨みます。

その勇姿を目に焼き付けるべく、広島駅にやってきたのは、
約600キロ離れた鹿児島に住む、松山竜平の両親です。

両親は1週間前、松山がカープを退団し、現役を続行する意向を聞きました。

母・松山ルリ子
「なんでまだ難儀するんやろうなあって思います。『もう良いんじゃないかな』って思いつつも、本人が『続けたい』と言えばもう、親は難も言えませんからね。」

父・松山義秋
「電話口では全然落ち込んでいる様子はなかった。ホントにもう、まだやるよって元気でしたよ。」

松山竜平選手
「自分自身何もできず終わった2年間だったんで体はまだ元気だし、まだまだやれるって言う思い強く、『このままでは終われないな』って。」

(もう40歳ですよ。)
父・松山義秋
「あっという間、本当に。」
母・松山ルリ子
「年を取るのも早いです。」
2007年のドラフトでカープから指名を受けた松山。
大学進学時には、今は亡き祖父・政雄さんが、
牛を売って学費を工面してくれたおかげで、野球を続けることができました。
指名直後の会見では、涙ながらに家族への感謝を述べました。

松山竜平
「おじいちゃんにほんとに支えてもらって、やっとこういう形でおじいちゃんに感謝することができました。」

1軍定着は4年目と遅咲きでしたが、その後はヒーローになるたびに、大観衆の前で感謝の思いを述べてきました。
松山竜平
「鹿児島のじいちゃん、ばあちゃん、俺やったよ!」
この言葉を聞いた、おじいちゃんおばあちゃんは?
母・松山ルリ子
「喜んでましたね。『また言ってくれた、今度はいつやろか?』って。『またお立ち台はいつになるかな』って言ってました。喜んでました。」

父・松山義秋
「マエケンがいる時はマエケンがいじって、キクがいじってですね。いい後輩が、アイツらがいたからキャラクターができたんですよね。逆にね。」

ファンにもチームメイトにも愛され続けた松山竜平の赤い18年。
ご両親が最も印象に残っている場面は?
父・松山義秋
「優勝したときの『祝勝会』が一番の思い出。あいつが"金髪のかつら"被ってやってるのは。一番アイツがはじけたんかな?」

そしてお母さんの思い出は3年前、母の日での始球式です。
ボールを受けるのは、息子の竜平だったのですが・・・
母・松山ルリ子
「投げた時に竜平って思ってなくて、キャッチャーってわかってなくて。本当に意識がないみたいな感じで、一生に一度の良い体験させてもらいました。」

息子に会いに広島に来るのは、最後かもしれない両親。昼食は久々に食べるというお好み焼きです。

父・松山義秋
「美味い。」
母・松山ルリ子
「猫舌なモノで。食べられませんまだ(笑)」

父・松山義秋
「うん、これや、やっぱりこれや。」
息子・竜平のカープでの最後の試合。両親が期待することは?
父・松山義秋
「もう自分のバッティングをしてもらえれば何でもいいんです。」
母・松山ルリ子
「出るのは一回だけですよね、代打だから。どこで出るんだろう。」

松山竜平 カープを幾度となく勝利に導いた男の"最後の勇姿"
見届けた両親は・・・
試合開始から3時間。9回裏無死1塁、ついに松山に出番が回ってきました。
カープでの最終打席はショートへの併殺打。
1塁アウトになった瞬間、涙を流すお母さんは顔をタオルで覆います。
そして試合後のセレモニーでは、
カープでの最後のプレーを終えた松山にも挨拶の場が設けられました。
松山竜平
「僕自身終わることはできません。もう少し野球をやらせて下さい!そしていつか"カープに恩返し"ができるように、成長した姿を見せられるように頑張っていきたいと思います。」
母・松山ルリ子
「たまりません、無理です。」

父・松山義秋
「まあ後はどこに行くかわかんないけど、頑張ってもらえれば。まだ野球人生は終わってないから。」

母・松山ルリ子
「声援がすごくて、ファンに愛されて良かったです。ありがとうございます。18年間ありがとうございました。」

松山竜平
「NPBの11球団にければ一番いいんですけど、そーゆーのは全部とっぱらって、どこでも行こうと思っているので、とにかく野球をやって、身体が動かなくなるまで納得できるまでやろうと思っている。こんな中途半端な選手ですけど、18年も面倒を見てもらって、本当に感謝しかないです。」

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