今年の夏、日本体育大学に一通の往復はがきが届いた。

 きっかけは8月15日付のこのコラムだった。

 日体大の前身は日本体育専門学校。1937年7月に始まった日中戦争以降、出征した在校生、卒業生のうち400人弱が帰らぬ人となったと伝わる。大学では2015年から、8月に慰霊式を行ってきた。

 コラムでは、そのリポートとともに、大学が戦没同窓生の名簿作成を進め、情報提供を呼びかけていることを書いた。

 はがきは1935年卒の伊東祐寛さんの家族からだった。伊東さんは卒業後、陸軍に応召され、日中戦争に参戦。1945年5月にフィリピンで戦死した。享年31歳だった。

 はがきの他に、伊東さんのラグビー部時代の写真や卒業アルバム、戦争経験がつづられた直筆の原稿なども寄せられた。

 直筆原稿は「戦闘の横顔」と題される。日付から日中戦争勃発前後のことを書いたと目される。

 「私の砲陣地は敵の山の陣地から撃つ砲の集中射撃を受け附近(ふきん)は土煙で見えない位になった。(中略)ああ無念。私の可愛い部下の姿はことごとくなし。そして私一人が生きたのだ」

 戦闘体験が生々しい。

 「陣中日誌を書いたあとのローソクのかけらが半分ほどである。せん香もない。俺はもう涙も出なくなった。たった一人の淋(さみ)しい御通夜」

 戦友を弔う記述だ。

 発熱時のことはこう書かれる。「私は私の体に自信をもっていただけにすぐには信ぜられなかったし、癪(しゃく)にさわった。然(しか)しそれからは体を少しでも動かす事さへ苦痛になってきた」

 戦争との関わりの歴史調査を担当する関口雄飛助教は、「陸軍中尉ということもあり、部下が亡くなった時の記述が目立つ。体力に自信がある人でも、戦地の残酷さを感じていることも伝わってきます」と話す。

 こうした史料に学生が触れることで、戦場の現実味と、平和だからこそスポーツに存分に取り組めることを実感してもらいたいという。

 「史料をもっと見つけなければ。見つかる可能性は十分にあります」と関口助教。

 戦後80年が暮れる。平和への希求と語り継ぐ努力は終わらない。

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 日体大オリンピックスポーツ文化研究所では戦没同窓生の情報を募っている。メールはolyken@nittai.ac.jpまで。郵便は東京都世田谷区深沢7の1の1へ。

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