プロ野球巨人の終身名誉監督だった長嶋茂雄氏が、6月に肺炎で亡くなってから3か月余り。89歳での旅立ちは、昭和世代にとっては「時代の終わり」を感じる深い悲しみだ。未だにその思い出の数々が蘇ってくる。

「ミスター・プロ野球」と言われた現役時代からの雄姿は、数限りない。首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回。最優秀選手(MVP)5回。通算2471安打、444本塁打、1522打点。2000本安打と400本塁打を達成した大卒(立教大卒)で初の打者だった。

昭和の子どもが好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」との言葉も生まれたが、「この『巨人』は実は『長嶋』だった」というのが巨人関係者の通説だ。草野球に興じる大人も子どもも、長嶋氏が背負った「背番号3」を取り合った記憶がこの世代にはある。

長嶋氏のプロ選手としての素晴らしさは、ファンを喜ばせるという視点に集約される。勝負強い打撃だけではない。三塁の守備でもファンを魅了した。特に三遊間のゴロをカットして、一塁に流れるようなスローイングで打者走者をアウトにする場面は、見せ場の一つだった。

監督時代に、その話を聞いたことがある。「あのシーンはカッコ良かったですよね」と言葉に、「あれは歌舞伎の『勧進帳』を見て、『これはいける』と思ったんですよ」と答えてくれた。

歌舞伎の演目「勧進帳」は、兄・頼朝から謀反の疑いをかけられた源義経一行が、山伏に化けて今の東北地方へ逃げ延びようとする際に、今の石川県にあった関所で山伏なら持っているはずの東大寺再建の寄付を募る勧進帳を読むように関守から命じられる物語。

幼名「牛若丸」と名付けられた義経を助けようと、何も書かれていない巻物を取り出した家来の弁慶は堂々とそれを読み上げる。さらに、荷を運ぶ者に扮していた主君が「義経に似ている」との疑いをかけられると、「お前のせいで疑われた」と自らが怒っているように偽り、義経本人を杖で強く打ち据えて人違いを装いながら窮地を救う。弁慶の忠義心の話だ。

その最後で、先に逃がした義経を急いで追いかける弁慶の見せ場が「飛び六法」。手を大きく振って勢いよく足を踏み鳴らしながら、花道を下がっていく。一歩ずつ飛ぶような独特の歩行法で人気のラストシーンだが、長嶋氏はこれに感動。歌舞伎を野球に置き換えて「タッタッター」と、一塁方向に走りながら弁慶をイメージして送球する練習を繰り返したという。

「動物的なカン」「天才」と評される長嶋氏だが、実際には誰よりも努力して物事を成しえる人だった。V9時代のエースで通算203勝の堀内恒夫氏が長嶋監督の下でヘッドコーチを務めていたころ、こんな話をした。

「うち(巨人)は松井(秀喜)と(西武からFA移籍してきた)清原(和博)が長嶋さん、王(貞治)さんのように人の3倍練習して、人の3倍働けば、いつでも優勝する」

「ON」の愛称で長嶋氏とともに球界を引っ張ってきた王氏も「努力の人」と言われるが、「あの頃は長嶋さんがずっと練習しているので、先には辞められなかった」と、現役時代を振り返っている。

長嶋氏の昔話を聞いているうちに、さらに驚いたことがある。なんと三振する練習もしていたというのだ。「燃える男」の代名詞にもなっているフルスイングで空振りして、ヘルメットを大きく飛ばしている写真がある。実はあれも、「演出」だったという。

「私たちは毎日野球をしているが、見に来てくれたお客さんはもしかしたら一生に一度かもしれない。そんなお客さんに、三振しても喜んでもらえる策はないだろうか。それで思いつきました」

もちろん、最初から狙って三振する気はサラサラない。だが、2ストライクを奪われた後に打ちにいった球を空振りした時には、途中からさらに大きく体を回転させて、ヘルメットを飛ばしたという。そのために、ヘルメットは頭にぴったりではなく、少し大きめのサイズにしていたそうだ。

普通なら「冗談でしょう」というレベルだが、シュート打ちの名人だったコツを聞いた時に、「ミスターならありうるかな」と思った。「僕は球種は読まないので、来た球がシュートだと思ったら、その時に打席でバットを握っている両手の指を開いて、少しバットを下に落とすんです。そうすると、芯に近いところで捕らえられる」。確かに理屈は分かる。だが、そんな芸当を、投手が投げて打者に向かってくるボールの球種が分かった段階からの「コンマ何秒」かの間にしてしまうなんて、並大抵のことではない。そういえば打席での長嶋氏は、バットを軟らかく握り、指を軽やかに動かしながら構えていた気がする。

三振しても、豪快な空振りでファンはしびれさせる。空振りを確信してから、瞬時に狙いを変えられるのも、飛びぬけた感性と努力に支えられた成果なのだろう。そんなサービス精神から、あの有名な写真は生まれたと分かった。

現役を引退し、監督になってからもファンを喜ばしたいという気持ちは最後まで変わらなかった。最大11・5ゲーム差を逆転した1996年の「メークドラマ」。その後、メークドラマを超える大逆転を意味する「メークミラクル」など、長嶋流の英単語を駆使した数々の造語も生み出した。優勝の可能性をあきらめない姿勢を選手のみならず、ファンにも持たせて「逆転への空気感」を作る。そんな能力に長けていたのだと思う。そこで生まれる劇的な勝利を誰よりも楽しんでいた。

優勝を逃したシーズン。投手陣が撃ち込まれて二けた失点し、東京ドームの9回裏、松井が3ランを打ったが、「焼け石に水」のゲームだった。だが、試合直後の長嶋監督のコメントは「いや~、ナイスゲーム。松井のホームランで皆さん喜んでくれるでしょう。じゃあ」。惨敗イメージでいた報道陣を煙に巻くようにスタスタと引き上げていったことがある。

「みんなが予想する勝ち方ではなく、見ている人をビックリさせて勝つ。それがプロ野球です」「失敗は成功のマザー」「野球は人生そのもの」「勝負は家に帰って風呂に入るまで分からない」記録よりも記憶に残るパフォーマンスとコメント。

「球場は劇場のようでなくては」と話していた長嶋氏が残した歩みは、いつまでもファンの心に残り続ける。

(竹園隆浩/スポーツライター)

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