負担軽減のみを競い合うのはポピュリズム
昨今、物価高の進行を背景に、「現役世代の負担軽減」が大きな政治イシューとなり、課税最低限の引き上げ(いわゆる「103万円の壁」)、消費税率の引き下げ、社会保険料の引き下げといった「税や社会保険料の負担を軽減して勤労世代の手取りを増やす」という政策を、与野党が競って主張するようになった。
賃金上昇が物価上昇に追いついていない中で、国民の不満に応えるために「目に見える」政策を主張して民意を獲得しようとする。このような政治家の行動も理解できないわけではない。
しかし、政(まつりごと)とは、目先の現象に目先の対応でしのぐことではない。税にしろ社会保険料にしろ、それらは単なる「負担」ではない。「負担」の先には「給付」がある。その「給付」が果たしている役割を見ることなく、単に目先の負担軽減のみを競い合うのは、政治の劣化、近視眼的ポピュリズム以外の何ものでもない。
なぜ、先人たちは「社会保障」という仕組みを考え、近代国家の基礎にこれを位置付けたのか。その原点を見失ってしまえば、民生の安定も国家の繁栄も望むことができなくなる。本稿では、ファクトに基づいて、いくつかの問題提起をすることとする。
社会保障負担の伸びは今後縮小
社会保障の規模は実額ではなく対国内総生産(GDP)比で考えなければならない。2040年の社会保障の姿をどう展望するか。その実像を客観的に見よう。
政府の推計によれば、40年の社会保障給付費の対GDP比は約24%、15年の1.1倍となる(下図)。

2000年から15年にかけての社会保障給付の伸びは確かに大きかった。この間に給付が1.46倍になったということは、負担もまた増大したことを意味する。しかしながら今後の展開は大きく異なっている。40年にかけての社会保障給付の対GDP比の伸びは大きく減少する。その伸びは2%ポイント程度、年率にして2%程度の伸びである。この間後期高齢者が1.37倍に増えることを考えれば、増大どころかむしろ抑制されているといっていい。
これは「総人口の減少」と、この間、医療・介護・年金はじめ社会保障全体を通じてさまざまな「構造的―中長期的に効果が持続するー適正化対策」を行ってきたこと、特にマクロ経済スライド導入などの年金改革の効果で年金の対GDP比が下がることが大きく寄与している。数字を見ずして過去のトレンドのみで感覚的議論を行ってはいけない。
年金保険料率は18.3%で固定
現役世代の負担する年金(公的年金)の保険料率はすでに18.3%で固定されている。つまり、これ以上増えることはない。
医療保険の保険料率を見ても、中小企業の労働者が加入する協会けんぽでは2012年以降平均10%で安定的に推移し、かつ、全体で昨年度6586億円の黒字を計上している。組合健保の保険料率はさらに低く、9%台前半で推移している。組合健保は3800億円の赤字決算だが、収支均衡保険料率は9.6%である。
もちろん、高齢化の進行と医療の高度化で保険料率は今後少しずつ上昇していくが、世界中どこを見ても「医療費の伸びを中長期的にGDPの伸びの範囲内に抑えている」先進国はない。医療の高度化・健康水準の向上といった「受益」があることを考えれば、この負担増を回避するために、皆保険体制をはじめとする医療保険の本来機能を毀損(きそん)するような給付抑制を性急に進めることに合理性は見出し難い。
格差の拡大・社会の分断を是正する社会保障
わが国の大きな問題が、格差の拡大とそれに伴う社会の分断、不安定化にあることに異論を挟むものはいないであろう。昨今の政治状況を見ても明らかである。
社会保障の大きな機能役割の一つは、所得再分配を通じた格差の是正である。
社会保障・人口問題研究所の「所得再分配調査」によれば、わが国の再分配前のジニ係数は拡大傾向にあり、市場における分配所得(当初所得)の格差は拡大している。他方、再分配後の所得(再分配所得)のジニ係数は一定水準に抑えられており、その効果の大半は社会保障である(下図)。

格差の拡大の背景には、市場における富(経済活動が生み出す付加価値)の分配のゆがみがある。グローバル化は特定の階層、特定の企業への富の集中をもたらした。「取り残された人々」の不満の鬱積は、昨今の政治の混乱の根本原因でもある。
格差の拡大が中長期的成長を抑制することは、経済協力開発機構(OECD)が繰り返し指摘している。格差の拡大していく社会にあって、社会保障が担うべき機能・役割はむしろ大きくなっている。負担の抑制を重視するあまりに、社会保障の持つ再分配機能を弱めてしまえば、さらなる格差拡大によって中間層の崩壊を一層招くことにもなりかねず、政府が目指す「全世代型社会保障の構築」にも、社会の中核を担う「分厚い中間層の形成」にも逆行することになる。
保険料軽減の恩恵は高額所得者に
社会保障の負担(税・保険料負担)は基本的に応能負担(定率)なので、高所得層がより多く負担する(これは消費税も同じ)。他方給付は「必要に応じて」提供されるから、所得の多寡によらない。実際、特に医療などの現物給付は所得階層によって給付に有意の差がなく、比較的等しく給付が提供されている。
つまり、給付と負担、両面で見れば、所得の高い層は負担の方が大きく、中低所得層は給付の方が多くなる。これが「再分配」の一つの機能である(※1)。
フランスの歴史経済学者トマ・ピケティは、その著書『21世紀の資本』の中でこう述べている。
「現代の所得再分配は、金持ちから貧乏人への所得移転を行うのではない。(中略)むしろ、おおむね万人にとって平等な公共サービスや代替所得、特に保健医療や教育、年金などの分野の支出をまかなう、ということなのだ」
もし社会保険料負担を削ってそれに見合った給付の抑制を行う、つまり社会保障の機能を弱める改革を行えば、負担については高所得層がより多くの軽減の恩恵を受け、給付の方は中低所得層も含めて薄く広く(等しく)削減されることになる。
結果的に、多くの国民が給付抑制という形で負担を負う一方で、保険料負担軽減の恩恵は高所得層と保険料の半額を負担している事業主企業がより大きく受けることとなり、格差はさらに拡大していくことになる。
是正すべきは所得分配のゆがみ
現役世代の可処分所得の確保を、税や社会保険料の軽減で実現するのは、不公平を拡大するばかりでなく、社会保障が担っている格差の是正や社会の安定といった機能を毀損し、中長期的な経済成長を阻害することになる。
現役世代の所得保障は、市場における付加価値分配の見直しを通じて行うべきであり、取り組むべきは、分配のゆがみの是正である。
現在の日本の真の問題は、社会が生み出した付加価値(=成長の果実)の分配に大きなゆがみがあり、生産性の向上が正しく賃金に反映されていないことにある。
(※1) ^ おおむね600万円以下の世帯では当初所得を再分配所得が上回る。
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