ぬるま湯の環境に危機感を持っていた。北海道長沼町のワイン醸造家、麿直之さん(41)は、ワイン造りの道に飛び込んだ当時を振り返る。
「人生の大半は仕事が占め、仕事が充実しないと、人生も充実しない」
醸造の経験や知識があったわけでもなく、特にワインが好きだったわけでもない。しかし、ワイナリーの立ち上げに誘われると、ワインというものづくりにひかれる自分がいた。
「ホワイトな職場」に転職して感じた疑問
大学卒業後、人材派遣のベンチャー企業に就職。発展途上にある会社は、社員600人のおよそ半数は新入社員が占めるというイケイケどんどんの会社で、「ワークライフバランス」の概念は皆無だった。
平日は朝7時ごろに出社し、終電前に同僚らと一杯ひっかけて帰宅する。土日も昼過ぎに出社し、夜は再び同僚らと飲みに行っていた。
恐ろしくブラックな企業での勤務に疲弊し、自身が営業を担当していた医療業界へ転職する。
外資系製薬会社のMR(医薬情報担当者)になると、生活は一変した。取り扱っていた薬は品質に優れ、競合も少なかった。
このため、過度な営業も必要なく、医師の時間が空く昼と夕方に医療機関を回れば、あとは社用車で待機ということも少なくなかった。
一方、給料は前職の倍となり、休みも十分に取れる。ブラックからホワイトな職場環境に慣れてくると、逆に「本当にこれでいいのか」と疑問も芽生え始めた。
「今のまま仕事を続けていたら、10年後には何も残らず、何もできない人になってしまう。振り返った時、これを続けていくことは厳しいと思った。1回しかない人生は少しでも充実させたい」
そんな思いを抱いていた時、懇意にしていた広告代理店の社長から「仁木町につくる新設ワイナリーで、ワイン製造責任者として働かないか」と誘われる。
調べてみると、ワインは同じ原料や技術、知識でつくっても、絶対に同じものにはならないという。新規事業に携われて、かつ、自分にしかできないワインをつくることに魅力とやりがいを感じ、「ぬるま湯」の環境から出て行く決心をした。
自社ワイン製造の直前に…
立ち上げメンバーには、ワインはおろか、農業のプロもいない。全てが一からのスタートの中、唯一の光明は、地元ワイナリーの技術提供・指導だった。
「サポート体制がしっかりしていたので、失敗はないと思っていたし、責任を負うこともないと思っていた」。およそ1年間、提携先のワイナリーで研修を受けながら、自社ワイナリーの設立準備を進めた。
そして、初めて自社のワイン造りを行うことになった時、期待していた技術提供・指導が打ち切りになってしまう。トップ同士の方向性の違いが原因だった。
1カ月後には契約農家からワイン用のブドウが到着してしまう。しかし、1年間の研修で体系的なワインの作り方はまだ教わっていなかった。
わらにもすがる思いで、ドイツ在住の日本人醸造家に連絡を取ると、ドイツに来れば最低限の造り方を教えてくれるという。
すぐにドイツに飛んで教えを請い、約3週間にわたってワイン造りのイロハを学んだ。
「自分がちゃんとしないと、ワインが作れなくなってしまう。ある意味、あの時から目標が定まり、腹が据わった。一心不乱にやれることをやっていこうという気持ちだった」
醸造家として本当の一歩を踏み出したのは、この時だったのかもしれない。【高山純二】
麿直之(まろ・なおゆき)さん
1984年生まれ、仙台市出身。法政大卒。外資系製薬会社のMRなどを経て、仁木町のニキヒルズワイナリーの設立に参画。その後、独立し、独自ブランド・マロワインズを醸造・販売する株式会社「ジャパン・ワイングロワーズ」、シェアワイナリーを運営する株式会社「ホッカイドウ・スペース・ワイナリー」、ブドウ畑を運営する株式会社「ホッカイドウ・スペース・ビンヤード」の3社を経営。
鄭重声明:本文の著作権は原作者に帰属します。記事の転載は情報の伝達のみを目的としており、投資の助言を構成するものではありません。もし侵害行為があれば、すぐにご連絡ください。修正または削除いたします。ありがとうございます。