続いては特集、「戦後80年 過去を知る 未来に伝える」です。

太平洋戦争末期に中国人が強制的に働かされ、76人が犠牲となった鉱山が県内にあります。
延岡市北方町と日之影町にあった槙峰鉱山です。

ここで80年前に宮崎県の山中で起こっていた出来事を忘れないでほしいと、中国人の労働者の家族が参加して慰霊祭が行われました。

(中国人労働者の家族 ツイ・シミンさん)
「どれほど劣悪な生活と労働環境に置かれ、どれほどの暴力的な使役があって、これほど高い死亡率となったのか。今でも想像を絶します」

日之影町で毎年行われる慰霊祭。
今年は中国人労働者の家族と日之影町の関係者など、合わせておよそ70人が出席しました。

日之影町史などによりますと、太平洋戦争末期、労働力が不足するなか、槙峰鉱山では多くの中国人労働者が強制的に就労させられました。

山東省出身の中国人労働者250人のうち、9人が入国までに死亡し、241人が終戦の年の2月に槙峰鉱山に到着しました。
そこから10カ月間、銅を含む鉱石を運搬する作業などに携わりました。

戦後、槙峰鉱山で勤務した松田富貴雄さん84歳が、その過酷な労働を振り返ります。

(槙峰鉱山で勤務 松田富貴雄さん)
「重いです。もうこのくらいのが、抱えるのがもういっぱいぐらいで、ものすごい重かったですね。鉱石だけは。坑内の中は過酷な仕事ですね」

食糧が不足する中で、8世帯分の住宅に241人が押し込まれ、病気になる人が後を絶たなかったとされています。

戦後、国や企業を相手に裁判を起こし、元労働者などを支援した団体が、生存者に聞き取った証言です。

(中国人労働者 アンバオツゥイさんの証言)
「坑内で鉱石を運んでいたとき、落石によって右手肘を骨折しましたが、そのまま何の治療も受けられませんでした」

(中国人労働者 ウェイグゥワンロンさんの証言)
「竪坑に落ちて、死んだ事故も見ました。生きて帰ることはできないと絶望していました」

10カ月の労働と移動中の犠牲者は、合わせて76人にのぼります。

曾祖父=ひいおじいさんが働いていたという男性。
曾祖父のことは「ある日誰かに捕まり、行方不明になった」と聞いていました。

(中国人労働者の家族 ツイ・シミンさん)
「(強制就労は)とても辛いことだと思います。このような悲惨な歴史は二度と繰り返さないようお願いします」

(中国人労働者の家族 ワン・ジンリンさん)
「一番いいのは平和、日中平和。永遠に平和でいられますように」

(中国人殉難者慰霊祭奉賛会 柳田泰宏会長)
「戦争ではみんな、日本に限らず、中国に限らず、いろんな国で苦労された方がいっぱいおられますので、一般の方が一番苦労しますので、平和が一番だと思っています」

参加した中国人の男性は、「苦しみ、歴史を忘れていないことを曾祖父やその仲間に伝えたい」と話しました。

過去を忘れずに、将来の戒めとする。
慰霊祭に参加した人たちはこの思いをかみしめました。

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