両親は日本人 日系2世に生まれて

サム・ミハラさんは1933年、サンフランシスコで生まれた。

愛媛県出身の父親は早稲田大学で英語を学び、1920年頃にアメリカに渡った。当時、日本各地から多くの日本人がより良い生活を求めてアメリカを目指した。ミハラさんの家族もそうした人たちだ。

ミハラさんと家族

父親は、現地の日系人向けの新聞社で記者として働いた。母親も移住した日本人だ。ミハラさんは小学4年生まで、地元の小学校に通い、楽しく学んでいたという。

ミハラさん
「学校にも日系人がいましたが、それに関係なく多くの友達がいました。すき焼きや天ぷらといった日本食も好きでしたが、私はハンバーガーも大好きで、サンフランシスコでの暮らしはとても楽しいものでした」

穏やかな日常が一変したのは、1941年12月だった。太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃だ。

“何で日本はこんなことをしたの”

旧日本軍がハワイに行った攻撃はアメリカを震撼させた。撃沈された戦艦アリゾナでは乗組員1177人が死亡し、今でも忘れてはならない歴史として記憶されている。

真珠湾攻撃 沈没する戦艦アリゾナ(1941年)

サンフランシスコでニュースに触れた日のことをミハラさんははっきりと覚えている。その日はディズニーのカートゥーン映画を見て、映画館から出たあとに、真珠湾攻撃を伝えるニュースを知った。

サム・ミハラさん

ミハラさん
「映画館を出て、真珠湾攻撃のことを耳にしたんです。新聞の見出しでも見ました。『なぜ日本はこんなことをしたの』と聞くと、父は『わからない、答えが見つからない』と話しました。日本がこの巨大なアメリカを攻撃するなんてばかげていると思いました。両親はとにかく心配していました。2人とも日本国籍のままでしたから」

当時のルーズベルト大統領は直ちに、戦時法である「敵性外国人法」を適用し、日本やドイツ、イタリアからの移民を拘束するよう指示した。

翌年2月に署名された大統領令9066号はアメリカ西海岸などに暮らしていた日系アメリカ人の強制立ち退きと収容に道を開いた。

各地の強制収容所に送られた日系人はおよそ12万人に上る。

競馬場に収容される日系アメリカ人(1942年4月)

氷点下の収容所 多くの人が凍傷に

当時9歳だったミハラさんも、家族とともに収容所に行くことになった。サンフランシスコで生まれ、アメリカの国籍を持つミハラさん。当時、自宅すぐそばに「Bye Bye Japs」(バイバイ、ジャップ)と、差別的な看板が掲げられていたのを覚えているという。

1942年5月、まずバスに乗せられ、カリフォルニアのポモナにある施設に入った。かつて馬小屋として使われていた場所だという。3か月後、今度は行き先も告げられないまま10両ほどの列車に乗せられ、荒涼とした平地で列車を降ろされた。

行き着いたのは、自宅があったサンフランシスコから1300キロ以上離れた内陸にあるワイオミング州のハートマウンテン強制収容所だった。

ハートマウンテン強制収容所(ワイオミング州 1942年8月)

有刺鉄線に囲まれた広大な土地に約450棟の簡素なバラックが建ち並んでいた。日系人約1万4000人は厳しく監視され、農作業のための労働などを除いて、収容所の外に出ることが許されなかった。

ミハラさん
「バラックに入った瞬間から、厳しい生活になることは明らかでした。電気もなく、水もなく、壁に断熱材も備えられていない、小さな、小さな部屋でした。そこで4人が暮らすのです。この狭い空間でいつまで暮らさなければいけないかわからないというのはとても悲しく、気が重くなりました」

冬は平均気温が氷点下になる厳しい寒さのなか、多くの人が凍傷になった。収容所で亡くなった人は約3年で183人に上る。

ミハラさんの家族も例外ではなかった。

「父は目の緑内障を患っていました。専門医の診断を受けるための外出をアメリカ軍が認めず、父は次第に視力を失い、失明しました。祖父もがんになり、収容所で亡くなりました。悲惨な死でした」

祖父の葬儀

終戦を迎えるころになり、ようやく日系人は収容所を出られるようになった。1945年6月28日、ミハラさん一家もハートマウンテンを後にした。ユタ州で3年ほど過ごしたあと、サンフランシスコに戻った。失明した父親は、移民向けの英語学校を作り、その運営で生活を立て直したという。

また起きる可能性はあると思いますか?

終戦後、ミハラさんは、西海岸の有名大学に進学し、ロケットのエンジニアとしてボーイング社で勤めた。まさに移民の子供としてのサクセス・ストーリーを歩んだ。

ハートマウンテンを離れて以来、思い出したくない記憶が詰まったあの場所を憎み、2度と訪れないとさえ誓っていた。

しかし、かつて抱えていた恨みや苦い思いは、年を重ねるとともに薄れていった。

転機となったのは、エンジニアを引退して旅行などをしながら過ごしていた2011年、知人からかかってきた1本の電話だった。

「あなたの収容所での経験を、話してくれませんか」

ミハラさんは迷いを抱えつつ、誘いを引き受けた。

今では、収容所の跡地に立つことも、全米各地で講演することもいとわなくなった。戦後80年となることしは、収容所跡地を訪れる人を案内する役を買って出た。

私たちがハートマウンテンを訪れた7月。そこには炎天下で見学者にみずからの経験を語るミハラさんの姿があった。

ミハラさんは、来場者に1つの問いを投げかけている。

「同じことがまた起きる可能性はあると思いますか?」

ミハラさんの意見はこうだ。

「起こりうると思う。それが私の答えです。同時多発テロのあとにイスラム教徒のアメリカ人に対して起こったこともそうです。移民の子どもたちや母親たちに対しても、いままさに起こっているかもしれません」

では、どうすれば再び起こらないようにできるのか?

悪い歴史も知るべきこと

ミハラさんは続けた。

「投票する機会があるのであれば、憲法を尊重する人を選んで投票してください。指導者たちが憲法を尊重し、誰もが自由と正義を享受できるようにする限り、このようなことは起こらないでしょう。2度と、誰に対しても、起こしてはいけないのです」

トランプ大統領はことし3月、南米のギャング組織を国外追放するために「敵性外国人法」を適用すると発表した。第2次世界大戦中、日本などからの移民を拘束するのに使われて以来のことだ。

この件で、アメリカの日系人団体は抗議の声明を出した。「2度とないように」と訴え、世代を超えて強制収容の歴史の教訓を語り継いできた日系人社会にとっては、自らの苦難の歴史を否定されているも同然だ。

ミハラさんは、今の移民たちの苦境をかつての日系人の姿に重ねている。

「アメリカは機会を提供する国です。誰もが人生の目標を追求する自由があるはずです。学生になりたい、ビジネスで成功したい、なんであれ人は自由に選択できるのです。それが良いことであり、私たちが守らなければならないものだと思います」

ミハラさんは今も、全米の学校や政府機関などで講演を続けている。これまで訪れた場所は全米50州のうち48州に上るという。

ミハラさんの講演を直接聞いた人の数はこれまでに12万人を超えた。講演などを通じて得た報酬およそ50万ドル(日本円で7500万円近く)全額を収容所の歴史を伝える団体に寄付している。

ミハラさんによる講演

92歳という年齢で、ミハラさんがいまも各地で講演を続ける理由は明快だ。

「みんなが知っておくべきことがあるからです。良い歴史だけではなく、悪い歴史も知るべきことです」

(7月31日キャッチ!世界のトップニュースで放送)

ワシントン支局 記者
戸川 武
2005年入局 新潟局 国際部 上海支局 中国総局(北京)
テヘラン支局を経て2024年8月から現所属

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