歌人の藤原俊成(しゅんぜい)、定家(ていか)親子の流れをくむ歌道の冷泉(れいぜい)家(京都市上京区)で、冷泉渚(なぎさ)さん(44)が後継者に決まった。約800年続く「和歌の家」には国宝の「古今和歌集」や定家の日記「明月記」が伝わり、住宅も現存最古の公家屋敷(国重要文化財)だ。古都・京都で日本の文化を守り継ぐ思いを聞いた。

――冷泉家を継ぐ覚悟を教えてください。
冷泉家には歴代当主の名前が残っていますが、支えてくれた人たちもたくさんいます。800年続いてきたことは並大抵のことではないと思います。受け継いだ文化をさらに洗練していかなければと思っています。
建物や古典籍はもちろんですが、絵画や美術工芸品、道具類などもあります。重文などに指定されることはないかもしれませんが、大事なものです。なぜ大事かというと、年中行事をやるための道具だからです。
年中行事には冷泉家住宅という場所も必要です。すべてを活用し、冷泉家が、文化が続く包括的な場所になることを目指しています。

――家宝はどれぐらいありますか?
数万点としか言いようがないんです。きちんと調査が進んでいるものは、全体の4分の1から3分の1ほど。残りを調べるのは、おそらく私が生きている間には不可能でしょう。「ここまでできたよ」というデータを次の世代に引き継がないといけません。
古典籍も冷泉家時雨(しぐれ)亭文庫の手書きの活動記録も、デジタル化を進めることが課題です。文化財の情報公開も進めたいです。

――なぜ800年も続いたのでしょうか?
定家卿(きょう)は明月記の中で「紅旗征戎(こうきせいじゅう)吾(わ)が事にあらず」と記しています。政治や争いごとは、自分がやる和歌の世界には関係ないと。長く続いてきたのは、政治的な動きと直接関わらず、陥れられることがないから。平和やったんです。
――明治時代になり、多くの公家が東京に移りました。冷泉家が京都に残ったのはなぜですか?
京都御所の管理人みたいな役(留守居役)に就いていたからです。政治家ではなく和歌の家ですから、政治の中心が移っても東京に行く必要はなかったと思います。
先祖代々の和歌の史料は大事な仕事道具です。たくさんあって持っていけず、「ここにいときましょう」となったのかもしれません。
――先祖が守ってきた和歌を学ぶ大切さについて教えてください。
和歌は自分のことを詠むのではなく、みんなで共有できることを詠む。それは美術、工芸、香道、茶道など、いろんな文化に生かされています。和歌を学んだら他のことに広がります。
冷泉家では和歌(うた)会を開き、和歌の指導をしています。遺跡ではありません。今も続けていることを知ってもらいたいです。

――「和歌の家」の未来を担う立場になり、心がけていることはどんなことですか?
まずは古典の勉強です。古典籍のことではありません。高校のときに使った古典の教科書や参考書で学び直しています。姉が古典の教師なので聞いています。基礎は大事です。
――子どもの頃から古典は得意でしたか?
あまり得意ではありませんでした。かるた取り大会や百人一首大会があると、先生たちから「意外と得意じゃないんや」と驚かれました。
――日本画を学び、文化財の保存・修復の専門家として学芸員も経験されました。今後やりたいことはなんですか?
公開です。1997年から全国を巡回して開かれた展覧会「京の雅(みやび)・和歌のこころ 冷泉家の至宝展」からずいぶんたち、調査も進んでいます。研究者としては、そうした大規模な展覧会をやらせてもらいたいと思っています。

れいぜい・なぎさ 1981年生まれ。冷泉家25代当主為人(ためひと)さんの妻、貴実子さんのめい。京都嵯峨芸術大(現・嵯峨美術大)で日本画を専攻し、京都市立芸術大大学院美術研究科博士(後期)課程修了。宮内庁正倉院事務所(奈良市)の研究職や平等院(京都府宇治市)の学芸員などを務めた。2023年に冷泉家の後継者に決まり、今年11月29日、披露の会が開かれた。現在は冷泉家時雨亭文庫学芸課長。

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