女子やり投の北口榛花(27、JAL)が世界陸上2連覇、昨年のパリオリンピック™も含め3年連続金メダルに挑戦する。今季の北口は、過去2シーズンと比べ万全ではない。6月の遠征中に右ひじに痛みが出て、約2か月間のブランクが生じた。8月20日のダイヤモンドリーグ(DL)ローザンヌ大会で復帰したが50m93で10位。8日後のDL最終戦では60m72の6位。それでも北口は、「ひじ以外のコンディションは、パリ五輪よりかなり仕上がっている自信があります。目標は変わらず金メダルです」と強い意思を見せている。

北口の今の強さにつながる大学時代のトレーニングや考え方を、日本大学時代の先輩の小椋健司(30、エイジェック 22年オレゴン世界陸上、23年ブダペスト世界陸上男子やり投代表)に話してもらった。

ウエイトトレーニングは弱かったが「物を投げる才能」があった

高校3年時に世界ユース選手権(現U18世界陸上)に優勝した北口が、日大に入学したのは16年。投てきブロックの女子は北口1人だったが、「男子の中で練習すれば、女子にとっては世界レベルですから」と、当時監督だった小山裕三氏(現佐野日本大学短期大学学長。TBS解説者)は、男子選手たちと一緒に練習をさせた。3年生の小椋は1学年下の崎山雄太(29、愛媛競技力本部)、宮内育大投てきコーチらとともに、小山氏から北口の世話役のような役目を任された。小山氏は学生の大会であるインカレを目標とすることなく、純粋に世界を目指してほしいと考えた。

日大は伝統的に、指導者が選手たちをまとめて一緒に練習をさせるスタイルではなかった。選手個々が練習を行い、それを指導者たちが見てアドバイスをする。前年の日本インカレ2位でやり投の中心選手だった小椋は、崎山ら数人と一緒に練習を行うことが多かったが、そこに北口が加わった。

「女子が1人では練習しにくいので、僕らが声を掛けて、一緒に練習をし始めました。小山先生からは男子と同じメニューをやらせよう、と言われていましたね。ウエイトトレーニングの重さや走るメニューのタイムは違いますが、実際、男子の練習に付いて来ていました。ただウエイトは強くなかったです。女子の日本トップ選手たちの数字に、近くもなかったですね。しかしハンドボール投は驚愕でしたね。自分と同じくらいの距離を投げていましたから。“物を遠くに投げる才能”が人とは違うと思いました」

大学1年時はあと少しで五輪標準記録に届かなかったが、61m38と国際レベルの記録を投げ、順調な大学競技生活をスタートさせた。日大投てきブロックの村上幸史コーチは09年ベルリン世界陸上やり投銅メダリストで、2人は世界を目指すために何をすべきかをよく話していたという。その一方で、北口の明るいキャラクターは当時から弾けていた。大きな笑い声が日大グラウンドに響き渡っていたのである。

「あきらめの悪さ」が最終投てきの強さに

だが2年時のシーズンベストは61m07、3年時も60m48と、北口は自己記録を更新できなかった。村上コーチが日大スタッフから外れた影響もあったのかもしれない。特に3年時は著しい体重減もあり、6月の日本選手権は49m58の12位と大敗し、7月の2試合も52m台と低迷した。苦しい時期の北口はどうだったのか。

「今みたいに大人ではなかったと思いますし、自信を持てない時期でした」と小椋。「でもそこで気持ちが折れたりしませんでしたね。練習に出てこないことはありませんでしたし、あの笑い声を聞かなくなったことはなかったと思います。自分に向き合ったことで秋には立ち直り、60m48を投げました」

それも北口の特徴である「あきらめの悪さ」だったと小椋は指摘する。練習でも北口の性格が良い形で表れていた。日大では投てき選手の代表的な練習メニューである砲丸のフロント投げ、バック投げをよく行った。小椋は何m、北口は何mと差は付けるが、その距離を投げるまで行ったり、その距離を何本投げると決めたりして練習していた。

「簡単に投げられない距離を設定することもあります。何本投げても越えられないと、練習ですから普通の選手ならあきらめるのですが、北口は絶対にあきらめませんでした。これを最後と決めて、その距離を投げることがありましたし、僕らが記録を越えて、『終わったぞー』と声を掛けると、スイッチが入って彼女も越えたりしていました。走るメニューも最後の1本でタイムを出したりするんです。それが試合でも、最後の1本の集中力につながっているのだと思います」

22年オレゴン世界陸上で銅メダルを決めたのも、23年ブダペスト世界陸上で金メダルを決めたのも、最終6回目の試技だった。世界陸上以外の国際大会でも最終試技で逆転することが多く、外国選手たちの間でも“逆転の北口”の評価は定着している。

練習で投げられる距離は50m以下だった

北口の練習の特徴として、試合で投げる記録より距離が出ないことも挙げられる。選手によって違うが小椋は練習と試合の記録がほぼ同じで、練習の方が距離が出ることもある。多くの選手は2~5m程度の違いだが、北口は10m以上低かったという。

「練習で50m飛んだら喜んでいましたね。それで大丈夫?と聞くと『私、試合は強いんで』と言って笑っていました。実際、試合になったらプラス10m投げるんですから、大物だな、と思いました」北口の練習と試合は、「(助走最後の局面の)クロスの進むスピードが3倍くらい違う」ように小椋には見えた。「彼女なりに練習も本気で投げているのですが、試合の本気度と練習の本気度がまったく違うのだと思います」

しかし、それでは行いたい技術を、試合と同じスピードの中で練習できないことになる。「その部分を北口は、試合中に修正できるのだと思います。以前は6本の試技の前半に、50m台が必ずあったと思います。練習のスピードに近い動きで確認して、そこから試合用のスピードでその技術ができるように修正していける。それが後半や最終試技の記録に結びついて、勝負強さとなっています」

北口も21年の東京五輪から、試合会場で行うことができる練習投てきから本気度を上げ、試合の前半から記録を出せるようになった。それでも最終試技の逆転が多いのは、大学時代の練習で最後にならないと集中できないクセが身に付いているからとも言える。しかし昨年のパリ五輪では1回目の試技で65m80を投げ、それが優勝記録になった。それも成長と言っていいのかもしれない。

チェコに拠点を移す行動ができた北口に感じた成長

いつも明るく大声で笑う北口だが、トップ選手によく見られる“我を通す”側面も持っている。それが学生時代にはどんな部分に現れていたのか。「嫌な練習をしなかった、と思われているところがありますが、僕は“できない練習”をしたくなかった、と思っています」

コーチ陣からは下半身の動きを改善するメニューを行うよう、再三言われてたが「逃げ回っていました」と北口自身が明かしている。しかし大学3年時の不調から、何かを変えないとダメだと判断して、シーズン後から混成ブロックの練習に加わって、下半身の動きを改善するメニューも行い始めた。「投てきブロックでは行っていなかったメニューなので、北口だけの責任ではありませんが、その頃に気持ちを入れ替えたのだと思います」

そして3年の冬にチェコ人のD.セケラック氏のもとで指導を受けるようになった。村上コーチがいなくなった後も、小山氏がコーチを何人か紹介したが、北口がやろうとしていることと何かが合わなかった。選手がコーチを変更するのは、特にレベルが高い選手ほど多くなる。求めるものが明確だからである。

セケラック氏の指導を受けられるチェコに、大学4年時の19年から拠点を移した。「今までと違う行動を起こさないと変われない、と思ったのでしょう。北口の覚悟の表れだったと思います。海外に行ったことで違う練習にも覚悟を持って取り組んだでしょうし、できる練習が増えて体の使い方も変わったと思います」

その行動に北口の、大学入学後の成長が表れていたと、小椋は感じている。「当初は宮内コーチや僕、崎山が彼女のために動いてあげないといけないと思って、大事に大事に育てていました。しかし徐々に、その状況ではダメだと彼女自身が気づき始めたのだと思います。自分から行動することが自身を変えて、成長する方法だと」

大学4年時の19年5月に64m36の日本新を投げた。チェコに行き始めた直後だったが、前年の冬から日大で行った下半身強化のメニューの効果もあっただろう。ドーハ世界陸上はあと数cmで予選落ちをしたが、秋には66m00のビッグスローを見せた。その後の世界大会は東京五輪12位、オレゴン世界陸上銅メダル、ブダペスト世界陸上金メダル、そしてパリ五輪金メダルと、世界の第一線で活躍し続けている。記録も23年に67m38まで伸ばした。

その間も小さなケガや不調はあったし、何度も苦しんできた。特に今季は、冒頭で記したように、大きいケガに苦しんだ。それも踏まえ小椋は、後輩にエールを送る。「どんなに調子が良くても悪くても、彼女らしく“笑顔”の投てきを期待しています」

北口が世界に羽ばたく基礎が培われた日大時代。その頃から見守り続けて来た先輩の思いも乗せて、北口のやりが国立競技場の空に大アーチを描く。

(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)

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