パリオリンピック™柔道男子73kg級で銅メダル、混合団体で銀メダルを獲得した橋本壮市(34)が引退会見に出席。「悔いはなし。やり切った」と自身の柔道人生を振り返り、「これまで私を支えてくださった皆様、心から感謝申し上げたい」と言葉を届けた。
今年の夏頃に引退を決意したという橋本は「(パリ)オリンピックが終わって、不思議なことに、もう全てを出し切ってスッキリした感覚に」と五輪後の心境を明かし、まず海老沼コーチに相談して「納得する姿で終わればいい」と言われたという。
同階級は大野将平がリオ五輪(16年)、東京五輪(21年)で2大会連続の金メダル。橋本は24年のパリ五輪で五輪初出場を果たし、日本柔道界で最年長となる32歳11か月で五輪メダリスト(銅メダル)となった。
「やっぱり大野選手っていう存在はですね、自分を成長させてくれたのは確か。彼にも感謝をしたいと思いますし、やっぱり彼を越えていかないと、このオリンピックにはたどり着かないので諦めないで戦い続けてよかった」と五輪王者として目の前に立ちはだかった大野選手の存在の大きさを語った。
「23年のグランドスラム東京の前に、もうそこで負けたら引退しようと思っていたりとか、30歳過ぎてからずっとそういう感覚っていうのはあり続けた」と苦悩の日々を口にし、それでも五輪を目指し続け、パリ五輪の切符をつかんだ橋本。
一番の思い出を聞かれると「やっぱり一番はオリンピックのとき」と答え、「その中でもメダル取ったとき(3位決定戦)っていうよりは、初戦で僕はすごく緊張してて。オリンピックに向けてもう本当に最善を尽くして準備をしてきたのに、入場のときにもう緊張しすぎて、試合ができる状況じゃなかったんですけど、そんなときに会場の歓声の中、娘の『パパっ』ていう声が自分の耳に入ってきて、地に足がつくような感覚になり畳の上に立つことができた」とついに立った夢の舞台のワンシーンを振り返った。
会見に同席した吉田秀彦総監督(56)は「(当時)東海大学に練習に行ってるときに、やたら自分の前に現れて、帯を締め直すやつがいるんですよ。それが壮市だったんです。就職先がなかったので、そういうアピールを。強化選手でもないのに、それくらいやる気のある選手で、言わなくても練習をやるタイプでした」と当時の愛弟子のエピソードを。
また橋本は出場できなかった東京五輪を振り返り、「当時の井上監督が(東京)オリンピック代表選手の発表の会見のときに、泣きながら(選外の)僕の名前を言っていただいて。このままじゃ終われないという気持ちになり、そこからパリオリンピック絶対自分が出るって決めてやり続けました」と話した。
「自分自身も金メダルっていうところしか見てなかったので、そこ(獲得できなかった)の悔しさはあるんですが、全身全霊かけて臨んだオリンピックだったので未練はないですし、やり切ったなっていうのはあります」と競技人生を振り返り、晴れやかな表情をみせた。
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