大歓声が響く国立競技場に、いよいよ世界のトップアスリートたちが集結する。無観客だった東京五輪から4年。9月13日に開幕する東京2025世界陸上を前に、TBS初田啓介アナウンサーは胸を高鳴らせていた。1997年の世界陸上中継開始から実況を担当し、数々の歴史的瞬間に立ち会い、選手たちの躍動を的確に、そして熱く伝えてきた初田アナが、熱戦の記憶と心を揺さぶられた瞬間を振り返る。

雨を味方につけた侍ハードラー・為末大(2005年ヘルシンキ大会)

2001年世界陸上エドモントン大会。当時、大学生だった為末は、日本人として初めて48秒の壁を破る日本新記録(47秒89)をマークし、銅メダルを獲得した。競り合いを制して3位に飛び込んだことが一目でわかる圧巻のレースだった。

為末大選手

その4年後のヘルシンキ大会。レース直前に激しい雷雨に見舞われ、放送席の電源はすべてダウンした。初田アナと解説者の苅部俊二氏(元400mハードル日本記録保持者)は、急遽、放送センターのブースに移動し、小さなモニターの前でレースを実況することになった。降りしきる大雨で、何度も開始時間が遅れ、長い待ち時間が続いた。ようやくスタートとなったレースでは、銅メダルを争うカーロン・クレメント(当時19、アメリカ)と為末が並ぶようにフィニッシュラインへ。そして為末は、倒れこんだ。

実況「倒れ込んだ為末ー!侍、勝てたか、3着に入れたかぁ!?」

どちらが3位なのか、計測結果が出るまでとても長い時間がかかった。初田アナは当時の様子を語る。

初田:
モニターを見ながら苅部さんと「どうなんでしょう、どうなんでしょう」と話していました。3位のところに為末大の頭文字「D」が出るか、カーロン・クレメントの「K」が出るか⋯。そして「D」が見えた瞬間、二人で大喜びしました。雨を味方に付けたその精神力が為末を再び銅メダルへと導いたのかもしれないと思いました。

のちに為末はこのレースについて「悪天候でも冷静さを保ち、じっと座って待っていた。他の選手がそわそわと落ち着かない様子を見て、自分は集中できていると確信していた」と語った。

苦難が育てたシファン・ハッサン(2023年ブダペスト大会)

シファン・ハッサン(32、オランダ)は、世界陸上で2個の金メダルを含む、6個のメダルを獲得してきた。パリ五輪では1500mと10000mで銅メダル、マラソンでは金メダルに輝いたマルチランナーだ。

彼女の人生は決して平坦なものではない。エチオピア出身だが、10代の頃、難民としてオランダへ逃れた。そんな苦難を乗り越えてきたからこそ、彼女の走りは見る者の心を打つ。東京五輪の1500mの予選ではラスト1周で転倒しながらも、一気に11人をごぼう抜きし、1着。驚異的なラストスパートを見せた。その力強い走りは苦難の人生で培われた強靱な精神力の証だ。

日本の中長距離界のエース・田中希実もハッサンに刺激を受けるひとりだ。

田中希実:
ハッサン選手はいろんな挑戦を楽しめるからこそ強い。私も彼女のように挑戦することを楽しみたいと思いますし、周りの選手に挑戦することの過程を見せることができる、優しくて強い選手になりたいと思います。

初田アナウンサーとハッサン選手

2年前、大会を終えたブダペストの空港で、お土産を選ぶハッサン(同大会は5000mで銀、1500mで銅メダル)と偶然出会った初田アナ。ひとりの陸上ファンとして声をかけると、快く写真撮影に応じてくれた。東京での再会も約束し、陸上界のヒロインの気さくな人柄に触れた、心温まる瞬間だった。

一瞬で判断を迫られたボルトのラストラン(2017年ロンドン大会)

初田アナが実況したウサイン・ボルト(ジャマイカ)のラストランは一瞬の判断を迫られる忘れられない瞬間となった。

ボルト現役最後のレースは、ロンドン大会の4×100mリレー決勝。世界中がスーパースターの有終の美を期待していた。しかしアンカーのボルトはトップでバトンを受け取った直後に足を痛め、レースをやめてしまう。会場が騒然となる中、初田アナは決断を迫られていた。ボルトの異変を伝えるか、それとも日本チームの動向を追うか…。初田アナはとっさの判断でこう伝えた。

「ボルトが走るのをやめた!日本現在3位だ」

初田アナ:
リレーの実況って結構大変なんです。ボルトが走るのをやめたとき、日本チームもメダル争いをしてたんです。いつまでもボルトに引っ張られてしまったら、日本の快挙を伝えることができない。そう考えて、すぐに切り替えました。

日本は、イギリス、アメリカに続き3着で、リレー種目で世界陸上初のメダルを獲得、ジャマイカは途中棄権した。ボルトのアクシデントを最小限の表現にとどめて伝えた日本チームの快挙と歓喜。そこにはベテランアナによる一瞬の判断があった。

歓声の中でつながるバトン

2021年、コロナ渦で無観客だった東京五輪の4×100mリレー決勝で、日本は1走から2走へのバトンがつながらず、失格という結末を迎えた。失意の選手たちに取材エリアでマイクを向けたのは初田アナだった。

初田アナ:
できればしたくなかったです、あのインタビューは。一番辛いのは選手たちであって、何も話したくなかったと思います。でも人間って、そんなどん底から立ち直ることができるんですよね。桐生選手は今年、日本選手権で優勝しましたし、アスリートって本当に立派です。

あれから4年、あのときの悔しさを晴らしてほしい・・・。新たなリレー侍の活躍に期待を寄せつつ、今度は多くのファンが詰めかけた国立競技場で、バトンがつながる瞬間を初田アナは心待ちにしている。

初田アナ:
バトンを繋ぎ切って、良い成績を残してほしいです。本当にそれに尽きます。そしてまだ東京では見たことがない大歓声の中で、どういうふうにバトンが渡っていくのかというのを注目したいです。

隣り合う各国の実況席。スタート前は静まりかえるが、号砲が鳴ると一斉に各言語で実況が始まる。初田アナは世界中のアナウンサーと共に歓声に包まれた国立競技場で歴史的瞬間を伝えようとしている。

解説の小山裕三 佐野日本大学短期大学学長と初田アナ

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