
第2次世界大戦後の欧州で最悪と呼ばれたボスニア紛争を終結に導いた和平合意の調印式から、14日で30年を迎えた。3年半で約10万人が亡くなった争いは再燃することなくこの日を迎えたが、社会になお残る民族主義の克服が課題になっている。
- 【そもそも解説】ボスニア紛争とは 10万人が犠牲、どう「和解」
バルカン半島に位置し、旧ユーゴスラビアの一部だったボスニア・ヘルツェゴビナでは宗教が異なる主要3民族が長年共存していたが、旧ユーゴの崩壊に伴い、政治指導者にあおられる形で民族意識が高まった。旧ユーゴからの独立の是非をめぐり、主要3民族による三つどもえの争いが1992年に始まった。

「民族浄化」と呼ばれた虐殺が繰り返された紛争は、クリントン米政権(当時)が仲介を主導。米軍を中心とした北大西洋条約機構(NATO)も軍事介入することで、ようやく戦闘の終結にこぎ着けた。
和平合意は、停戦ラインをベースにボスニア・ヘルツェゴビナの中に二つの政治体制を作り、民族に基づくすみ分けを認める苦肉の策だった。1995年12月14日、クリントン米大統領も出席したパリでの調印式で、各勢力の代表が正式に和平合意に署名した。和平合意は民族同士を引き離すことで民族間の対立を凍結したが、社会の和解は進みにくい課題を残した。

和平合意で作られた二つの政治体制の一つで、セルビア人が多数派の「スルプスカ共和国」では、ボスニアからの分離独立をちらつかせる「共和国大統領」のドディック氏が今年、国の裁判所から有罪判決を受けて公職追放された。
11月にドディック氏の後任を決める大統領選が行われ、ドディック氏が推す与党候補が僅差(きんさ)で勝利。ただ、AFP通信によると、野党候補が選挙に不正があったと主張して選管が複数の投票所で開票のやり直しを命じており、再集計が続いている。

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