野菜自体の水分で蒸し煮にした一皿は、野菜の味わいが凝縮している。肉のだし汁を煮詰めた濃厚なソースを合わせた

いまでこそ野菜が中心の料理を提供するフレンチレストランは珍しくない。だが、ひと昔前は魚や肉の添え物で、あくまで脇役だった。そんな野菜の役割を引き上げ、主役を張るフランス料理を確立したのが、小峰敏宏さんである。

5年前に埼玉県飯能市で自宅の書斎を改装した「アトリエ・ド・コンマ」を開き、1日1組と無理のないスタイルで営業する。今年69歳、東京の第一線で30年以上働いて故郷に戻り、野菜との関係を以前に増して深めている。

東京都世田谷区に「ラ・ターブル・ド・コンマ」が開店し、フランス修業から帰国した小峰さんがシェフに就任した1988年はバブル経済の真っ盛りでフランス料理ブームの真っ最中。高級レストランの食卓はキャビア、フォアグラ、オマール……海外から空輸された食材であふれていた。

店の前に立つ小峰敏宏さん。店内は文字通り、自宅に招かれたような温かさがある

一方、国産の農水産物を積極的に取り入れて、日本らしい地産地消のフランス料理を志す若きシェフが少なくなかった。小峰さんもその一人。際立っていたのは明確に野菜に焦点を絞り、安全性と健康面にも気を配ったことだ。手間をかけて有機栽培された良質な野菜を各地から探し求めて使った。

「当時はレストラン向けに流通するのも、農薬をたくさん浴びた野菜でした」と小峰さんは回想する。熱心な生産者が最適な時期に栽培した野菜が安定して手に入るようになった92年には「野菜のコース」を始めた。突き出しからデザートまで野菜で通したフルコースは珍しく、大きな話題を呼んだ。

「肉の魔術師」と呼ばれたフランスの三つ星シェフ、アラン・パッサールさんが野菜料理に転向し、野菜のフルコースを出して世界的に注目されたのは2001年。その遥(はる)か先を行っていた。実は転向の1年前、小峰さんは野菜のコースを載せた自著をプレゼントしていた。「その影響じゃないかと勝手に思っています」と笑う。

ピュレ状にした野菜を一晩かけてこした、透明なガスパチョ。一部はシャーベットにして浮かべてある

小峰さんの故郷の飯能は面積の約75%が森林に覆われ、スギ、ヒノキの林業で栄えた土地だが、古くから野菜の種を産出してきた歴史を持つそうだ。今も固定種の種のみを販売する、全国的に有名な「野口種苗研究所」がある。

固定種とは、地域で何世代にもわたって育てられ、環境に適応するよう形質が固定された品種で、種を採取して次の栽培に利用できる。しかし私たちが今日、口にする野菜の大半はF1種である。異なる性質の種を掛け合わせた雑種の1代目で、形や大きさが一定で、生育が早く、収穫量が多い。だが、すぐれた性質が種に受け継がれないため、毎年種を購入しなくてはならない。

小峰さんは、料理人のクラブを立ち上げたり、ジビエ振興団体の副会長を務めたり、小学校での味覚教育や子ども食堂の手伝いをしたりと、地元の食を盛り上げる様々なコミュニティーに関わっている。その活動で野口種苗研究所と交流し、固定種の持つ力に気がついた。

野口種苗研究所には、食に関心の高い地元の人はもちろん、国内外の各地から客が訪れる

「こうした在来の野菜は、味に生命力がある。守っていかなくては」と小峰さん。肉質が緻密で甘みがある「みやま小かぶ」や病気に強く味も良い「奥武蔵地這(じばい)胡瓜(きゅうり)」など、飯能の山間部で種を採り続けてきた固定種を地域ブランド化したいと考える。

ただ、栽培しやすく、同じようにそろった野菜ができるF1種とは違い、固定種は生育の速度や大きさにばらつきがあり、作り手の技量が品質にはっきり表れる。味が濃い、品種特有の香りが強い半面、えぐみやアクを感じることがある。下手に作るとこうした欠点が強調されるが、経験値の高い人が上手に栽培すれば、素晴らしくおいしくできる。

現在、小峰さんは固定種を育てる4カ所の農家の採れたて野菜を使っている。そのうちの1軒、岡田和樹さんの畑を訪ねた。企業勤めを経て30歳を前に農業に興味を持った岡田さんは、規模も農法も異なる数軒の農家で修業。「豊かな自然ときれいな水、伝統文化が共存し、都会とのアクセスがよい」と飯能に移住し、本格的に就農した。

岡田さんは数カ所に持つ合計1ヘクタールほどの畑で、年間約100種の固定種を無農薬・無肥料栽培している。農家になってまだ4年だが「勉強熱心で、すごく上手ですよ」と小峰さん。

岡田和樹さん(右)の畑で。「小峰さんは作物のおいしさを伝えてくれる重要な存在」と言う

この日はデトロイトダークレッドという色鮮やかな品種のビーツを収穫した。葉や茎にもビーツらしい味がしっかり含まれ甘みが強い。思いのほかどの野菜も虫食いが少ないのは「肥料を与えないことで植物が強靭(きょうじん)になり、虫が来ないのかもしれない」と岡田さん。農業の大規模化が推進されるなか、小さくて強い環境保全型農業の存在意義は大きいと、小峰さんは確信する。

オープン当初は以前からの常連が多かった「アトリエ・ド・コンマ」だが、いまは地元の客が半分以上。料理書がぎっしりの本棚に囲まれた客室は居心地よく、夕方4時に来て夜9時まで滞在する人もいるそう。コースは前菜、魚、肉、デザートのオーソドックスな構成だが、各皿で質量とも野菜が占める割合は大きい。味や形や硬さに1個ずつ個性のある固定種を使うようになって、野菜の火入れの難しさ、面白さをますます感じている。

ワンオペで作るので前日から仕込むこともしょっちゅうだが、1日1組だけに絞ったことで、「この人のために」という思いを込めて自分で心底納得できる料理が出せるようになった。

6年前に戻ったときは引退する気構えだった小峰さんだが、地元の人々の後押しで店を開くに至り、前以上に充実した日々を送る。飯能名物のスイーツ作りにも取り組み、林業から出るヒノキのおがくずをアップサイクルした琥珀(こはく)糖やアイスクリーム、固定種の野菜の焼き菓子、地元産コムギの全粒粉クッキーを開発した。これから食でもっと町の役に立ちたいと思っている。

食文化研究家 畑中三応子

松渕得之撮影

[NIKKEI The STYLE 2025年8月10日付]

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