サッカーの元日本代表で、男子歴代最多の75得点をあげた釜本さんは、今月10日、肺炎のため81歳で亡くなりました。

告別式は大阪 吹田市の斎場で営まれ、日本サッカー協会の田嶋幸三名誉会長や、釜本さんが監督として率いるガンバ大阪でプレーした永島昭浩さんなどサッカー関係者や親交のあった人たちおよそ170人が参列しました。

祭壇には遺影のほか、日本が銅メダルを獲得した1968年のメキシコオリンピックでプレーしていたときの写真なども並べられ、参列者たちは世界の舞台で活躍した偉大なストライカーをしのんでいました。

式では、日本サッカー協会の田嶋名誉会長が弔辞を読み上げ、「生まれながらの天性の点取り屋、釜本邦茂。日本のサッカーの存在を世界に知らしめてくれた。私たちは功績を胸に刻み、これからもサッカーの発展に尽くして参ります」と涙ながらに話しました。

また、釜本さんと親交が深かった俳優の松平健さんは弔辞で「大阪に仕事に行くたびに家に招待してもらい、いつも楽しい時間を過ごさせていただいた。長い闘病の苦しさから解放され、どうぞ安らかにお眠りください」と話していました。

ひつぎにはガンバ大阪のユニフォームや関係者がそれぞれ名前を書いたサッカーボールなどが入れられました。

そしてサッカーファンに親しまれている曲、「FIFA Anthem」が流れる中で出棺が行われ、参列者たちは最後の別れを告げていました。

日本サッカー協会 田嶋名誉会長「サッカー界に大きな歴史を」

日本サッカー協会の田嶋幸三名誉会長は、「長い日本サッカーの歴史を見ても、世界と互角に戦えるストライカーは残念ながらほかにはいない。弔辞にはサッカー界に大きな歴史を刻んでいただいた感謝の意味を込めた」と話していました。

そして、「あれほどサッカーを愛し、日本代表を愛した方はいない。その気持ちを引き継ぎ、まず来年のワールドカップで選手や監督を全面的にサポートしていきたい」と決意を話していました。

横山謙三さん「さみしさが込み上げてきた」

1968年のメキシコオリンピックで釜本さんとともにゴールキーパーとしてプレーし、銅メダルを獲得した横山謙三さんは、「いつも、『またな、元気で』という声かけをしていたので、さみしさが込み上げてきた。彼がいつも言っていたのはシュートの前にボールを止める技術がいかに重要かということで、相当、練習をしていた。僕も彼のシュートを何百発と受けて鍛えられた」と話していました。

永島昭浩さん「世界と戦う考えやレベルの高さ見せていただいた」

ガンバ大阪時代に監督だった釜本さんから同じフォワードとして教えを受けた永島昭浩さんは、「ストライカーというポジションは結果を出さないと生き残れないとわかっていたが 釜本さんと出会って世界と戦う考え方やレベルの高さを見せていただいた。釜本さんがプレーしていたころはフィジカル、コンタクトの強い時代だったので、困難な時代に結果を残すことは、本当にすごいと思う。さみしい気持ちでいっぱいだ」と話していました。

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