イベントで参加者に語りかける脇山順子さん(中央)=長崎市魚の町で2025年11月15日午後0時35分、添谷尚希撮影

 長崎市の料理研究家、脇山順子さんは89歳になった今も料理教室を開き、長崎の伝統料理の継承に取り組む。原点にあるのは、食糧難に苦しんだ戦中戦後と原爆の体験だ。【添谷尚希】

根菜皮まで、エビは殻まで 味わえる幸せかみしめて

 15日に長崎市民会館であったイベント。脇山さんは、豚肉の薄切りやニンジン、ゴボウなどを甘辛く炒め煮た伝統料理「浦上ソボロ」を振る舞った。おいしそうに食べる来場者の笑顔を見ながら、「食糧難の時代には、こんなごちそうは食べられなかった。食に不自由せずにいられる幸せをかみしめて食べ物を無駄にせず、再び『食べられない時代』が来ないように一人一人が考えることが大切」と語った。

 80年前の1945年2月、42歳だった父悦二さんは結核で死亡。県立長崎高等女学校の家庭科教員だった母敏子さん(2001年に92歳で死去)が、脇山さんら5人の子を育てた。

 脇山さんは当時8歳で長崎師範学校付属国民学校3年。8月9日は爆心地の南東約3・3キロの長崎市鳴滝の自宅にいた。警戒警報を聞き、2階の窓から敵機の様子をうかがっていると落下傘が見えて閃光(せんこう)が走り、気がつくと玄関で倒れていた。きょうだい5人で現在の鳴滝高校の敷地内にあった「トンネル」に逃げ、被爆者の救護活動に出ていた敏子さんの帰りを待った。

脇山さんらが作った「浦上ソボロ」(中央上)や「長崎天ぷら」(右上)、「ヒカド」(右下)などの伝統料理=長崎市魚の町で2025年11月15日午後0時22分、添谷尚希撮影

 脇山さんに大きなけがはなかったが、クラスの半数ほどを占めた浦上在住の児童の多くが死亡。浦上にあった長崎師範学校が原爆で壊滅したため付属国民学校も閉校し、脇山さんは9月に伊良林国民学校へ転校した。伊良林の校庭では11月ごろまで廃材を井形に組んで遺体を火葬していた。校庭で石拾いをすると、人骨がいくつも見つかった。

 当時はみな骨と皮だけのようになり、通知表には「栄養失調」と記載されていた。その中で敏子さんは我が子に栄養をつけさせようと必死だった。母の口癖は「石ころ以外は何でも食べられる」。脇山さんたちは、食べられそうな野草などを見つけては家に持ち帰った。

 野草が入った「すいとん」やイワシのすり身などで作った「ジャオズ(餃子)」など、脇山さんは今でも母の味を覚えている。甘いものが手に入らない中でサツマイモを煮詰めた「サツマイモ汁粉」は楽しみだった。みそ汁はだしの出がらしの煮干しまで食べた。「何でも工夫次第でおいしく食べられると母に教わった。煮干しははらわたが苦かったが、たんぱく質を摂取させようとした親心がしみる」と振り返る。

 母の姿に「家庭科教員の資格を取ればたくましく生きられる」と考え、脇山さんは県立長崎東高を卒業後に長崎大学芸学部家政科(当時)へ進学。「煮干しのアミノ酸の定量分析」を卒業研究のテーマに選んだ。

 家庭科教員となって高校や短大、大学などで教壇に立ち、栄養学を教えた。93年からは社会人、05年からは修学旅行生を対象にした料理教室を開催。食糧難時代の経験を語り、母の教えを生かして「根菜は皮まで、エビは殻まで、キャベツは芯まで食べられる」と伝える。

 脇山さんは「戦争や環境問題で再び食べられない時代が来てしまってからでは遅い。食べ物に不自由しない今だからこそ、食の大切さを見つめ直してほしい」と願う。

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