20人ほどの大学生が、教室のホワイトボードをじっと見つめていた。
東京都品川区にある立正大のキャンパス。授業を受けているのは法学部1年の学生たちだ。2年からゼミが始まるため、どのゼミを選ぶか、自身の考えや志望動機をまとめてシートに書き込もうとしていた。
<前編の主な内容>
・6年間のプロ野球人生
・プロ5年目から通信制の大学院へ
<後編はこちら>
2人の恩師に導かれ 元楽天・西谷尚徳さんの「引退後の準備」
「ゼミは科学を探究する場です。科学者になれという意味ではないんですが」
そう説明するのは西谷尚徳(ひさのり)さん(43)。立正大法学部の教授だ。
「ゼミではリポートが求められます。主観や思いつきで書いてはいけません。判例や法律、事実といった客観的な根拠で論理を展開する。それが科学です。読み手、評価者(教員など)を意識してください」
この授業は「アカデミック・ライティング」。リポートや学術論文を書くための技術を学ぶものだ。近年多くの大学が重視するカリキュラムの一つで、主な対象は初年次の学生。西谷さんはこの分野の専門家だ。
全体の説明が終わり、各自がシートに書き込む時間になった。西谷さんは通路を歩きながら、個別に語りかけた。「大丈夫? ちゃんと理解できてる?」
なんだか「優しいお兄さん先生」という感じ。「元プロ野球選手」と聞いても、にわかには信じられないかもしれない。
「私が元プロ野球選手と何人が知っているんでしょうね。あまり言ってはいないので、よくわからないです」。西谷さんはそう言ってはにかんだ。
6年間のプロ野球人生
忘れられない日がある。
2009年6月14日、仙台市のKスタ宮城(当時)。楽天の本拠地だ。観衆は2万441人(公式発表)。楽天に入団して5年目。西谷さんにとって初のヒーローインタビューだった。
「お立ち台」に登壇し、両脇には、スラッガーの山崎武司さんとエースの岩隈久志さん。「超」がつくスター選手だ。2人に挟まれ、西谷さんは満面の笑み。でも涙をこらえていたのか、目は真っ赤だった。スタンドでは、ファンが「西谷」と書いたプラカードを掲げていた。
マイクを向けられ、西谷さんはこう話した。
「やっと1本が出ました。チームに勢いがあるので、足を引っ張らないように頑張っていきたい」
この日はセ・パ交流戦で対戦相手は横浜。先発投手は「ハマの番長」、三浦大輔さんだった。西谷さんは2番・二塁でスタメン出場すると、三回にスクイズを決めて先制。その後も2点適時打を放ち、勝利に貢献した。
だがその立場は保証されていなかった。「1軍に昇格したのはレギュラーの選手が故障したから。『自分は球団にあまり必要とされていない』と、うすうす気づいていました」。しばらくして再び2軍へ戻された。
この年の11月、西谷さんは戦力外を通告される。
「まだやれる自信はありました。実力を出し切れず、不完全燃焼のままでは納得できなかった」と、トライアウトを受ける。複数安打を決め、阪神から育成枠でのオファーが来る。入団し支配下登録を目指したがその壁は厚かった。またも戦力外通告を受け、10年秋に引退した。
プロ生活は計6年間。1軍での成績は16試合出場で50打数12安打、打率2割4分だったが、2軍では計170本以上の安打を記録(日本野球機構〈NPB〉公式サイトによる)。「十分にやりきった」。未練はなかった。
プロ5年目から通信制の大学院へ
引退はプロ野球選手の誰もが迎える重大局面だ。最近では「日本プロ野球選手会」が「学び直し」や企業への就職をサポートするなど、再就職に向けた環境が整いつつある。だが直後はなかなか現実を受け入れられず、異業種への転職に悩む選手も少なくない。
その点、西谷さんはやや事情が違っていた。
球団の許可を得て、プロ5年目から明星大大学院の通信制で2年間学び、教育学の修士号を取得した。
移動中のバスや宿泊先の部屋で、教育関係の専門書を読みあさった。だが周囲に「そんな時間があるならもっと練習しろ」「いいよな、引退しても先生になれるんだから」と言われた。「理解されないのが悔しくて、涙が出ました」
引退した翌春、非常勤ではあったが高校の国語教員に採用される。13年には立正大の講師、18年には准教授。論文執筆を重ね、「社会で活躍するためのロジカル・ライティング」などの書物も世に出した。
高校時代、「将来は国語の先生になって高校野球の指導者になる」という未来予想図を描いていた。現在は大学教授で当初のプランとはやや異なるが、教育者という点では共通している。
プロ野球選手になっても西谷さんは「学び」を忘れなかった。「異色の求道者」を支えていたものは何だったのか。【江畑佳明】
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